219年、漢中を制圧した劉備(りゅうび)は漢中王を名乗ります。さらに孟達(もうたつ)と劉封(りゅうほう)に上庸を攻め取らせました。そして荊州を統治する関羽(かんう)を北進させ、魏領に攻め込ませたのです。
于禁(うきん)、龐徳(ほうとく)を倒して捕虜とし、曹仁(そうじん)が守る樊城を囲んだ関羽でしたが、ここで思わぬ敵が出現します。背後に襲い掛かったのは、江東の支配者である孫権(そんけん)でした。
魯粛の死により方針転換
曹操(そうそう)を共通の敵とし協力し合うために、劉備と孫権の架け橋となっていたのは魯粛(ろしゅく)でした。しかし、その魯粛が217年に病没すると、後任の呂蒙(りょもう)は曹操と戦うことの無益さを孫権に説き、関羽を倒して荊州を制圧することを進言します。孫権はその提案を認め、曹操と手を組み、標的を関羽に絞ったのです。劉備や関羽は、孫権のこの方針転換に気づきませんでした。
関羽の油断を誘う作戦
関羽は、樊城攻略のために出陣した際に、兵力の一部を公安と南郡に割いて、孫権に備えます。ここで呂蒙は孫権に書簡を送り、「病弱な呂蒙は治療のために建業に戻す」と指示を出すことを求めます。そして呂蒙重病の噂を流し、その帰還を指示した文書が関羽に届くようにしました。
さらに建業に戻った呂蒙は、陸遜(りくそん)から荊州制圧の助言を受けます。呂蒙は陸遜と話をし、その器量を認め、孫権から呂蒙の後任として誰を陸口に派遣すべきか問われた際に、陸遜を推薦したのです。まだ無名にちかい陸遜であれば、関羽はさらに油断すると考えたのでした。陸遜は偏将軍・右都督に任命され、呂蒙と交代します。
関羽に送った陸遜の書簡
後任の陸遜は、魯粛以上に関羽に下手に出ます。陸口に着任するや、関羽にへりくだった書簡を送ったのです。書簡には、「関羽は偉大な将軍であり、傍に身を置くことができて光栄である」ということや、
「曹操はずるがしこいやつなので、軽視せず、完全勝利を目指してほしい」、「私は一介の書生にすぎず、このような大役に手探りの状態で、見当違いのことをしていても見捨てないでほしい」という内容が書かれていました。これを読んだ関羽はすっかり気を許してしまい、守備兵を樊城攻略に割いてしまったのです。
呂蒙と陸遜が先鋒となる
陸遜はそんな関羽の状況をすべて孫権に報告しており、関羽を生け捕る策のポイントまで進言しています。孫権は呂蒙と陸遜に先鋒を命じました。精鋭の兵を大型船の船腹にひそませ、櫓をこがせる兵には白衣の服装で商人に化けさせました。
この策が功を奏します。関羽は川岸に見張り所を設置していましたが、呂蒙らの接近に気づくことができなかったのです。戦わずして、関羽の留守を任されていた武将である士仁(しじん)と麋芳(びほう)は投降しました。さらに呂蒙は南郡の住民を保護する命令を下します。部下が民家から笠をひとつ取り上げたことも許さずに処刑しました。
関羽は孫権の裏切りを信じられず、使者を何度も南郡の呂蒙のもとに出しましたが、使者は家族たちが以前よりも厚遇されていることを確認し、それを関羽の陣営の兵たちに伝えたため、兵たちは敵愾心を失いました。かくして孤立無援となった関羽は、朱然と潘璋に退路を断たれて捕らわれたのです。
三国志ライターろひもとの独り言
こうして孫権は荊州南部を制圧。呂蒙は南郡太守に任命され、孱陵侯に封じられます。陸遜は撫辺将軍に任命され、華亭侯に封じられました。三国志では最強ランクに名を連ねる関羽に対し、陸遜は油断させ、さらに兵站を断つことで、動きを封じたのです。
この辺りの陸遜の演技力は、曹爽(そうそう)を油断させて葬った司馬懿(しばい)の演技力に対抗できるものです。三国志界のアカデミー賞があったら、主演男優賞は陸遜か司馬懿が取るに違いないでしょう。しかし、ここで孫権が劉備を裏切っていなければ、関羽が曹操をどこまで押し込めたのか、三国志ファンとしては気になるところですね。
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