三国志にはいろいろな官位が登場しますが、その中でも秀でた政治力を持った者しか就任できなかったのが「丞相(じょうしょう)」です。丞相まで昇進した人物には、あの呉の英雄・陸遜(りくそん)がいます。今回は、丞相に就任した後の陸遜の功績についてお伝えしていきます。
後漢王朝には丞相はなかった?
官位についての雑学になりますが、漢王朝の三公といえば、行政長官の「丞相」と、軍事責任者の「太尉」、官の不正取り締まりをする「御史大夫(ぎょしたいふ)」でした。
それが後漢の時期になると、土木建築の責任者である「司空」、行政のトップである「司徒」、軍事を統括する「太尉」に変更されています。196年に献帝を許都に迎えた曹操(そうそう)は、司空に任命されます。そして袁氏を滅ぼし、河北を制圧した時点で、三公を廃止し、新たに「丞相」と「御史大夫」を置き、曹操は208年に丞相に任命されるのです。
蜀の丞相はひとりだけ
221年、劉備(りゅうび)が蜀の皇帝に即位すると、諸葛孔明(しょかつこうめい)は丞相に任命されました。蜀で丞相に任命されたのは諸葛孔明ただひとりです。丞相は中央政府の最高行政官で、丞相府には軍師祭酒、軍師、長史、従事中郎などが置かれています。ただし、曹操にも諸葛孔明にも当てはまることですが、中央政府で偉そうにふんぞり返っていたわけではありません。むしろ中央政府にいる時間の方が少なかったことでしょう。
曹操は荊州制圧、涼州制圧、漢中制圧など戦場を駆け巡っていますし、諸葛孔明も南征、北伐と休む間もなく戦い続けています。皇帝の傍で直接サポートしていたのは、「内朝」と呼ばれる侍中や尚書といった皇帝の秘書的な官僚だったようです。
呉の丞相
孫権(そんけん)は221年に呉王に封じられると、丞相にもと劉繇(りゅうよう)に仕えていた孫邵(そんしょう)を任命しています。孫邵は225年に病没し、2代目丞相には顧雍(こよう)が任命されました。顧雍は厳格な人柄で、孫権からよく信頼されていました。225年から243年までのおよそ20年間に渡り、丞相を務めています。
そんな顧雍も243年には病没しました。243年といえば、魏ではすでに二代目皇帝の曹叡(そうえい)も没しており、蜀では諸葛孔明亡き後を他の家臣たちが必死でカバーしているような状態です。三国志も末期ですね。ここで呉の三代目丞相に就任したのが、陸遜になります。244年の正月のことになります。
陸遜の丞相だった頃の経歴
陸遜は行政のトップでありながらも、軍事でも荊州牧・右都護としてトップの位置にあり、首都の建業ではなく、武昌に駐屯していました。まさに曹操や諸葛孔明に匹敵する二刀流ぶりです。しかし、曹操や諸葛孔明と大きく異なるのが、丞相にいられた期間です。244年に丞相となった陸遜ですが、翌245年には病没しています。実は陸遜が丞相に就任する以前から、建業では、孫権の後継者を巡る政争劇が繰り広げられていました。
呉を衰退させる要因ともなった「二宮の事変」です。皇太子であった孫和(そんか)は、武昌にいる陸遜に助けを求めました。陸遜はそれに応えて、何度も孫権に上表するのですが、讒言もあり、逆に罪を背負わされることになります。そして陸遜は憤死するのです。
三国志ライターろひもとの独り言
245年には呉の将軍である馬茂(ばぼう)が孫権暗殺を企てましたが、未然に発覚し、一族すべて処刑されました。丞相である陸遜が看破したわけではないようです。陸遜は遠い荊州の地にいたからです。そう考えると、陸遜が丞相に就任して行ったことは、後継者争いを終わらせるために孫権へ上表したことぐらいということになります。
ちなみに陸遜にかけられたあらぬ疑いは、すべて息子の陸抗(りくこう)が晴らしています。孫権は泣きながら謝罪し、後悔したそうです。四代目の丞相には、陸遜が支持する孫和に対抗する勢力の筆頭格である歩騭(ほしつ)が任命されています。陸遜が丞相としてもっと活躍できていたら、呉はまったく違う将来を歩めたかもしれませんね。
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