【第一次濡須口の戦い】赤壁より人数が多い三国志史上屈指の会戦

2018年10月14日


 

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赤壁の戦いで負ける曹操

 

第一次濡須口(じゅしゅこう)の戦いは、曹操(そうそう)孫権(そんけん)建業(けんぎょう)建設を受けて起こした戦いです。それまで内陸の()に拠点があったのが長江の付近にせり出してきたわけなので曹操は濡須口を占領して大船団で建業を突けば制圧できると考えたのでしょう。

 

呉お正月企画、お酒にまつわる逸話07 孫権

 

これに対して、孫権も濡須の付近に濡須塢(じゅすう)を築いて攻撃に備えました。第一次濡須口戦役は、結果的に大きな戦闘は少ないまま終わりますが、なかなか見応えのある逸話も幾つか生まれているのです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志史上最大40万を動員する曹操

三国志史上最大40万を動員する曹操

 

西暦212年、正月、曹操は濡須に軍勢を進めました。この第一次濡須口の戦いは、三国志史上でも最大の兵力を動員した可能性があります。史実における赤壁での曹操の動員兵力が16万から20万と考えられているのに対し第一次濡須口の戦いでは、40万という大兵力が動員された可能性があるのです。

 

※もっとも、正史に人数があるのではなく二次資料の江表伝が根拠

 

劉備軍に降伏する馬超

 

 

どうして、そんな事が可能だったのかと言うと、前年、曹操は潼関(どうかん)の戦いで馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)の反乱を鎮圧していて関東に兵力を割かなくても良くなった事があげられます。もう一つの理由は、荊州南郡で火事場泥棒的な働きをする劉備が、荊州に関羽(かんう)を残して益州に入って国獲りの真っ最中だったからです。

曹操に噛み付く劉備

 

つまり、一時的ではありますが、曹操は孫権以外に敵がいない状態にあり数で威圧するコケ脅しの効果を期待するつもりで40万の大軍を動員した可能性は大いにあるのです。

 

 

 

油断も隙も無い、孫権をダシに劉璋から兵を騙し取る劉備

孫権をダシに劉璋から兵を騙し取る劉備

 

それに対して、孫権は7万の軍勢で防衛に当たりますが、これだけでは心許ないので益州の劉備に援軍を要求しています。

 

「なあ?俺達同盟関係だろ?しかも義理の兄弟でもある助けてくれよ」

 

てなもんでしょう。ここで劉備は得意の詐術(さじゅつ)を駆使して劉璋(りゅうしょう)に掛け合います。

 

「我が軍の同盟国であり、私の義理の兄でもある孫権殿が逆賊の曹操に攻められ非常なピンチに陥っています。そればかりでなく、義弟の関羽も楽進(がくしん)に攻められて、懸命(けんんめい)に防いでいますが、中々苦しい状態です。

 

もし、関羽が敗れれば賊めは蜀の領域を侵して事態は深刻になります。張魯(ちょうろ)なんか、自分を守るので精一杯の小者ですが、曹操はそうじゃないですぞ!つきましては、救援したいので万の兵力と食料、必要物資を貸して下さい」

 

 

しかし、いつまでも劉備が張魯を討たない事に不信感を持った劉璋は4000名の兵と要求した物資と食料を半分だけ送ります。

 

魏書によると劉備、希望通りの兵力が送られない事で落胆(らくたん)する兵士を怒らせる為に

 

「劉璋のドケチめ、俺達が益州の賊を除こうとこんなに奮闘(ふんとう)しているのに財物を出し惜しむとは、こんなので頑張れるかっ!」と怒ってます。

 

頑張るも何も、劉備は今の所、何もしてませんけどね・・相変わらず図々(ずうずう)しいヤツです。

 

さらに劉備、こうして救援の為にせしめた兵力と物資を一兵たりとも孫権に送らず、ちゃっかり着服しました。

 

やがて、劉備が劉璋を攻撃したと聞いた孫権は、「あの狼中年、やっぱり同族だから攻めたくないは嘘だったのか!」と吐き捨てて悔しがりました。ナイーブですね孫権、嘘に決まっているじゃないですか!

 

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曹操、濡須塢を落として公孫陽を捕虜に董襲は船が沈没し水死

 

曹操は、孫権の江西営(こうせいえい)を撃破して部将の公孫陽(こうそんよう)を捕虜にし城を落とします。さらに曹操は大軍で横江(おうこう)に進撃しました。この時、濡須口には董襲(とうしゅう)徐盛(じょせい)楼船(ろうせん)を五隻で曹操を迎え撃とうとしますが夜中に強風に煽られた楼船はバランスを失いことごとく沈没しました。兵士達は、小船を出して脱出を図り、董襲にも脱出を勧めますが、

 

「俺はここに駐屯せよと命を受けて賊を待ち受けているのに、どうして任務を無視して持ち場を放棄(ほうき)できよう?二度同じ事を言う奴は斬るぞ」と、訳の分からない事を言い、遂に楼船と共に河底に沈み溺死しました。徐盛の蒙衝(もうしょう)(突撃船)も大風に煽られて船が曹操の陣営に流されます。

 

徐盛

 

 

しかし、大軍にビビッて呉兵は蒙衝を回収にいけません。そこで、徐盛は単独で兵を率いて河を越え上陸して曹操軍に奇襲をかけます。夜間で不意を突かれた曹操軍は大混乱し多くの死傷者を出して四散、徐盛は悠々と天候回復を待ち蒙衝を取り返して帰還しました。

 

 

 

甘寧、僅か百騎で曹操に大打撃を与える

甘寧、僅か百騎で曹操に大打撃を与える

 

乗っけから大風で董襲を失った孫権は劣勢挽回を甘寧(かんねい)に命じます。その挽回というのが百人の手勢で40万に突撃しろという武者(むしゃ)ぶりでした。普通なら、満面の笑顔を浮かべつつ「おいおい冗談じゃねーよ、アル中ヒゲだるま、まさか、()ってんじゃねーだろな?」とマイルドに断る所ですが・・(よわい)、六十を越えた甘寧は文句も言わず命令を受けると、百名の決死隊を募り、孫権から貰った上等な酒を銀杯(ぎんぱい)()んで二杯あおり、次に決死隊百名を率いる(とく)に酒を酌んで与えました。

 

ですが、孫権のあまりの武者ぶりな命令に(おび)え切ったのか督は平伏したままで、顔をあげず杯を受けようとしません。そこで、甘寧はいきなり刀を抜いて膝の上に置き、

 

ブチギレる甘寧

 

 

 

(きょう)至尊(しそん)(孫権)に知遇を受けている事と、私ではいずれが上か?その私でさえ死を恐れぬというのに、卿は怖れるのか?」

 

 

これは、俺の杯を受けないならこの場で死ねという勢いです。こうまで言われては、この督も覚悟を決めざるを得ず、甘寧の盃を受けて飲み干し、今度は自分が百名の決死隊それぞれに酒を酌んで回りました。

 

♪ちゃらら~ん、ちゃらら~ん うおお、、まるで仁義なき戦い、ヤ〇ザの出入りそのままです。

 

決死隊百名は、それぞれ馬にくつわを噛ませて、音を立てないようにし濡須口を渡って対岸の曹操軍の陣営に入り込みます。時間は午前零時、辺りは真っ暗で静まり返っています。甘寧は防御の為の鹿角(ろっかく)を引き抜いて捨て、防塁(ぼうるい)を乗り越えると辺りにいる魏兵を無茶苦茶にブチ殺し始めました。

 

「て、敵襲だーー!」

 

魏の陣営では大騒ぎになり、夜空の星のように篝火(かがりび)が焚かれますがまさか、僅か百名で斬り込んだとは考えてもおらず、空しく太鼓を鳴らして警戒するだけで、甘寧の決死隊百名を探す事は出来ませんでした。その間に甘寧は敵の首を数十引っ提げて、自陣へ還り軍鼓(ぐんこ)を叩かせ万歳(ばんざい)を叫ばせたのです。

 

これを見て、孫権は大いに喜び、厚く褒美を与えて言うには「魏には張遼(ちょうりょう)がいるが、わしには興覇(こうは)がおるこれで釣り合う」と満足顔をしたようです。でも、九割九分命がない戦いをやっていながら、手柄が絹千疋(せんびき)と刀百口とは少なくないですか?六十を過ぎた老将に対して優遇を感じないのですが・・

 

 

 

呂蒙のアドバイスで濡須塢を建設し曹操軍を破る

呂蒙のアドバイスで濡須塢を建設し曹操軍を破る

 

第一次濡須口の戦いは、当初、呉軍は船の上に帰る船上生活だったようです。しかし、これでは不都合だというので呂蒙(りょもう)が献策して、中州に()(要塞)を築城する事を計画します。孫権は、これを採用しようとしますが、他の将軍たちは、「岸に上がって賊を撃ち、足を洗って船に入れば済む事で、どうして塢を築く必要がありましょう」と猛反対しました。

 

呂蒙

 

 

ですが、呂蒙は「戦は巡り合わせだから、百戦百勝はない。タイミング次第では船に逃げる暇もなく、賊の歩騎が間近に迫るかも知れないそれで、船に戻れなければ何とするのか?」このように言われたので諸将は沈黙、かくして孫権は中州に塢を築城します。元和郡県図志(げんなぐんけんずし)·巻逸文巻二によると、呂蒙が築いた塢は偃月(えんげつ)の形をしていて中心部が大きく湾曲し、塢の両端から()を撃ち込みやすい形をしていました。

 

それを知らない曹操、濡須水に油船を浮かべて中州に攻め込みますが、孫権は即座に出撃して曹操軍の先遣隊を包囲し、数千が溺死、数千が捕虜になる大戦果を挙げる事になります。

 

 

大胆な孫権、自ら魏軍の敵情を視察する

大胆な孫権、自ら魏軍の敵情を視察する

 

魏略の記述では、孫権は戦勝続きで大胆になり小船に乗って濡須口に出撃しました。まさか孫権が乗っているとは思わない魏軍は、挑発されていると思い()や矢を射かけます。

 

※呉録では曹操が矢を射かけさせなかったと書かれています。

 

船は大量に矢を受けて傾いたので、孫権は一計を案じて船を旋回させて、もう片方にも矢を受ける事で重さのバランスを取ります。それを見た曹操は、きっとただならぬ人間が乗っているのだと感心し、孫権かも知れぬと推量して、みだりに弩を放たないように命じます。こうして、孫権は悠々と引き揚げていきました。

 

曹操は、孫権の豪胆な事と兵士の一糸乱れぬ統率に関心し「子供を持つなら孫仲謀(そんちゅうぼう)だ、、劉景升(りゅうけいしょう)(せがれ)など犬か豚の子だ」と何の関連もない劉琮(りゅうそう)をdisって称えたそうです。

 

 

孫権の手紙で魏軍が引き揚げ痛み分け

曹操

 

第一次濡須口の戦いは、そのまま膠着状態に入って一か月が経過しました。呉録では孫権は曹操に書簡を送り、春は水が増えるから船は便利になる今のうちに退却した方がいいぞと勧告しました。また、別の節では「汝が死なない限り、私は安心できない」と書いてありました。曹操はそれを見て、「孫権はワシを(あざむ)かぬ」と言って退却しました。

 

ところでどうして春になると水が増えるのでしょうか?これは推測ですが、三国志の時代は地球全体が寒く、長江が凍る事もあったようでそれを考えると、第一次濡須口の戦いの時期も冬なのであちこちで凍った箇所があり、船の移動が不自由だったとも考えられます。これが春になれば、氷が解けて船の移動が自在になるので水軍で魏を凌駕する呉としては有利になるという事ではないかと思います。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

今回は、第一次濡須口の戦いを紹介しました。7万VS40万という戦いでしたが、大きな戦闘は少なく、曹操も探りを入れたという感じだったようです。一方で、百騎で突撃した甘寧や僅かな手勢で蒙衝を奪い返した徐盛、船と運命を共にした董襲のように呉の将に目立つ人が多く出た戦いという事が出来るでしょう。

 

魏の記録には濡須口の戦いが素っ気ないのは、やはり、どちらかと言うと勝利したのは呉という事なのか40万の大軍はデモンストレーションで本気で攻めるつもりはなかったか?いずれかだろうと思いますね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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