関羽を捕らえたのは呂蒙であるということは『三国志』ファンの多くが知る事実です。特に『三国志演義』に基づいた作品から『三国志』ファンになった人には関羽ファンが多いので、関羽を捕らえた呂蒙のことが忌々しくてたまらないという人もいるのではないでしょうか。
しかし、実は呂蒙の力だけでは武神・関羽を捕らえることはできませんでした。呂蒙が関羽を捕らえられたのは、後に夷陵の戦いで蜀軍を壊滅させる陸遜の力があったからなのです。
呂蒙、荊州奪還戦の最中に病気に(?)
呉と蜀は赤壁の戦い以来同盟関係にあり、呉はその当時自分の領土を持っていなかった蜀に荊州を貸してあげていました。しかし、蜀は自分の領土をゲットしても呉に荊州を返してくれません。それどころか、武神・関羽を荊州に配置して威圧してくる始末。この状況に呉はとてもヤキモキしていました。
しかし、「このままではアカン!」と呂蒙が立ち上がります。その頃関羽は魏の曹仁が守る樊城攻めに夢中で、呉に対する備えがおざなりになっていました。このことに目を付けた呂蒙は孫権に次のような内容の手紙を送りました。
「関羽は樊城を攻めていますが、荊州に多くの兵を留めています。おそらく私呂蒙が留守を狙っていると警戒しているからでしょう。私は最近病気がちなので治療をするために建業に帰るということにしようと思います。関羽がこれを聞けば、おそらく荊州の兵を襄陽に差し向けるでしょう。大軍を川に浮かべて日夜走らせ、空になった荊州を襲えば、南郡を下して関羽を捕らえることができます。」
この手紙を読んだ孫権はさっそく「呂蒙は病気になっちゃったから(棒)」と触れ回り、呂蒙を前線から撤退させました。呂蒙の思惑通り関羽はすっかりそれを信じ、荊州に置いていた兵のほとんどを魏との戦に投入してしまったのでした。
呂蒙の代わりに誰が指揮を執る?
「敵を騙すにはまず味方から」という言葉もあるからか、味方である陸遜も呂蒙の病気をすっかり信じていました。そのため、呂蒙が建業に戻る際、陸遜はすぐにお見舞いに駆け付けました。このとき、呂蒙は代理の武将を誰にしようか悩んでいたのですが、ちょうど駆けつけてきた陸遜が適任だと考えます。それは、陸遜が有能な武将であるのにもかかわらず、まだ関羽にその存在を知られていなかったからです。
陸遜、関羽を油断させるためにお手紙を送る
陸遜は呂蒙の代わりに任地に赴き、さっそく関羽に手紙を送りました。その内容は大変恭しいもので、「いやぁ、ご高名な関羽様の隣に配置されるなんて、本当に恐れ多いことです。」といった関羽へのゴマすり全開のものでした。この手紙を読んだ関羽はすっかり気を良くしたようで、「呉はもう俺にビビって完全に荊州を諦めたようだな」と完全に勘違いしてしまいました。
関羽が樊城を攻めている間に荊州を奪還
陸遜は関羽が油断しているさまをすぐに孫権に報告し、「今なら関羽を捕らえる」と進言します。これを受けて孫権はすぐに呂蒙と陸遜を先鋒として派遣しました。呂蒙と陸遜は商人のふりをして進軍を続け、南郡に攻撃を仕掛けてあっさりゲット。関羽が留守にしているうちに関羽軍の家族を保護するなどの善政を敷いて荊州を完全に乗っ取ることに成功します。帰る場所を失った関羽は激しい抵抗を見せたものの、ついに息子・関平とともに捕らえられてしまったのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
その後関羽は首をはねられ、呂蒙は関羽を捕らえて荊州奪還を果たしたということで孫権からこの上ない称賛と恩賞を与えられます。しかし、今度は本当に病にかかって程なく亡くなってしまいました。このことについては「関羽の呪いではないか…?」とまことしやかに囁かれていますが、もし関羽が呂蒙を呪うならば、陸遜も一緒に呪うべきなのではないでしょうか。陸遜が出てこなければ関羽もあそこまで油断をすることは無く、荊州を乗っ取られることはなかったはずですからね。
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