魏(220年~265年)の青龍3年(235年)に司馬懿は太尉に就任しました。詳細なことは記されていなので、この就任に深い意味は無いと思います。
おそらく今まで蜀(221年~263年)と戦ってきたことに対しての褒美と考えてよいです。ところで、この太尉はどの程度の権力があったのでしょうか。そう言えば『水滸伝』の悪役の高俅も太尉に就任しています。
そこで今回は「太尉」という役職について解説致します。
後漢の太尉
太尉は後漢(25年~220年)には存在していたようです。就任していたのは将軍ではなく文官です。
職務は国防担当です。しかし、別に本人が戦場に立って指揮をすることはありません。日本の国防大臣が被災地に行って指揮しないのと一緒です。
中国には「三公」というものがあります。
行政担当の「司徒」、監察・政策担当の「司空」、軍事担当の「太尉」です。残念ながら、政治的権限は後漢の時期には衰えていました。
後漢の第12代皇帝の霊帝は官職の売買を奨励していたので、本来の役職の価値が落ちていたのです。曹操の父の曹崇は多額の金銭を支払って、太尉の役職を手に入れたようです。
まるで相撲の年寄名跡のようです。
※年寄名跡とは、日本相撲協会の「年寄名跡目録」に記載された年寄の名を襲名する権利であり、俗に年寄株、親方株とも呼ばれる。
wikipedia
太尉消滅
建安12年(207年)に、曹操は袁尚を滅ぼして北方を制圧します。翌建安13年(208年)に曹操は丞相に就任します。
これは荊州の劉表、呉(222年~280年)の孫権を討つための就任です。この時に司徒の行政権、司空の監察・政策権、太尉の軍事権を全て自分の手に集中させます。この時に太尉は完全に政治的権限を失って、ただの名誉職に落ちてしまいます。後漢滅亡後も太尉の名称は残って就任するのは、いずれも功績がある家臣ばかりでした。
太尉に就任した人物一覧
(3)蜀の北伐の防衛に成功した司馬懿。上記の3人は特に有名です。
その後の太尉について 宋代
魏が滅んだ後の太尉も名誉職に変わりありません。代表的なものは宋(960年~1279年)を舞台にした小説『水滸伝』の悪役の高俅が太尉に就任していたことです。『水滸伝』では高俅が軍の最高責任者として描かれていますが、実際の彼に全く軍事権はありません。宋代に軍政を担当していたのは、知枢密院事、同知枢密院事、簽書枢密院事の3つの役職でした。
『水滸伝』の時期に知枢密院事に就任していたのは、宦官の童貫なので、彼に軍事権がありました。
太尉の役職は宋の滅亡とともに消滅してしまい、その後の王朝に受け継がれることはありませんでした。
【中国を代表する物語「水滸伝」を分かりやすく解説】
三国志ライター 晃の独り言 司馬懿が就いたもう1つの名誉職
以上が司馬懿が就任した太尉という役職の沿革についてでした。
余談ですが司馬懿が就任した名誉職として有名なものは、曹爽が司馬懿を政治から遠ざけるために就けた太傅という役職があります。曹爽は司馬懿の同僚である曹真の息子です。
司馬懿は自身の身を守るために、病気といってずっと屋敷に閉じこもっていました。曹爽もさすがに疑って李勝という人物を派遣して、様子を伺わせますが、司馬懿は難聴や認知症のフリをして、うまく切り抜けました。だまされた曹爽は油断してしまい、狩りに出かけますが、その隙を突いて司馬懿はクーデターを起こします。
これを司馬懿の「正始の政変」と言います。詳細はいつかまた話します。
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