董卓が行った長安遷都とはどんなこと?長安遷都の意図は?


はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

董卓

 

董卓(とうたく)後漢(ごかん)(25年~220年)の群雄の1人です。

 

董卓

 

元々、涼州(りょうしゅう
)
を治める地方官の1人に過ぎませんが、後漢第12代皇帝の霊帝(れいてい)が亡くなったことを契機に、首都の洛陽(らくよう)に訪れて政治の実権を握ります。非常に暴虐な行為が多かったので民は苦しめられました。

 

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

しかし、最期は養子の呂布(りょふ)と仲違いをしてしまい殺されました。董卓は遷都(せんと)を行ったことで知られています。

 

「せんと」と言っても、あの有名な奈良県のゆるキャラではありません・・・・・・ってそれは、せんとくんだ!

「お巡りさん、独りごとブツブツと呟いている危ない野郎がいます」

待ってください。真面目にしますので、警察だけは勘弁してください。

 

開始早々、読者の皆様から警察に通報されそうになった筆者でしたが話を戻します。

遷都(せんと)は字の如く、都を他の場所に移すことです。

 

袁紹と献帝と董卓

 

董卓は洛陽(らくよう)から長安に移動させたのです。その経緯はどのような内容でしょうか。

今回は董卓の長安遷都(ちょうあんせんと)について解説します。

 

自称・皇帝
当記事は、
「董卓 遷都」
「長安 遷都」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

はじめての三国志全記事一覧はこちら

関連記事:董卓軍の軍事組織はどうなっていたの?暴君の軍隊をミエルカしたよ

関連記事:もしも呂布が悪人・董卓を成敗しなかったら三国志はどうなる?

 


 

董卓討伐軍の結成

橋瑁が決起文を送り反董卓連合軍結成

 

初平(しょへい)元年(190年)に袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)橋冒(きょうぼう)を筆頭に諸侯が董卓討伐軍を結成しました。討伐軍といっても、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』のように諸侯が一斉に集まっていたわけではありません。

 

袁術

 

実際は諸侯が好き勝手な行動をとっていたようです。また、率先して董卓に立ち向かう諸侯もほとんどいなかったようです。

 

苛ついている曹操

 

立ち向かったのは曹操(そうそう)王匡(おうきょう)等の少数でした。しかし、そのような勇猛な人たちはみんな敗れてしまいました。

 


 

董卓の長安遷都計画

董卓に強引に連れられる献帝

 

董卓は各地の諸侯が蜂起したことを耳にすると恐れました。急いで会議を開いて董卓は洛陽から長安に遷都して、後漢第14代皇帝献帝(けんてい)を守ることを提案しました。

 

楊彪(ようひょう)

 

しかし楊彪(ようひょう)は、「うかつに遷都することは、反対に混乱を招くだけです」と反対しました。

 

楊彪を司空に任命させる董卓

 

董卓は説得しますが楊彪は引き下がりません。最後の切り札として、「私のもとに辺章(へんしょう)韓遂(かんすい)から長安遷都賛成の手紙が来ています」と言います。

 

韓遂

 

辺章と韓遂かんすい)は当時の後漢を悩ませていた西方の暴れ者です。韓遂は後に馬超(ばちょう)と組んで曹操と戦う人です。まるで、「俺のバックにはヤ〇ザの知り合いがいるんだぜ!」という通りすがりのヤンキーレベルです。

 

董卓

 

それでも楊彪は反対するので、遂に董卓は楊彪を罷免して遷都を強行的に実行しました。


 

董卓の長安建設計画

ミニチュアで遊ぶ董卓

 

こうして強行的に行われた遷都でしたが、董卓はこの長安に城を築きました。「郿城(びじょう)」と呼ばれています。城の高さは長安城と一緒と言われています。非常に眉唾な話なのですが、考古学が発達した近年に発掘されました。

 

董卓

 

残念ながら、まだ発掘は続いているので詳細は分かっていません。それにしても、そのような巨大な城をどうやって築いたのでしょうか。董卓は遷都前に「木材は自分の故郷の涼州から運ぶ」と言ってました。

 

董卓

 

これは推測なのですが、もし辺章と韓遂の繋がりが本当なら、彼らのツテでもらっていたのかもしれません。董卓は攻め込まれても大丈夫なように、城には30年分の食糧を詰めていたようです。

 

兵糧庫の中を一杯にした任峻

 

30年分というのは想像がつきません。そんな貯蔵庫がどこにあったのでしょうか。筆者は後世の創作と推測しています。


  

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が董卓の遷都計画についての記事でした。

 

呂布に暗殺される董卓

 

董卓は遷都から間もなくして、呂布の手により殺されました。

 

李傕・郭汜祭り

 

また、董卓の死後は彼の残党が政治党争を行ったので長安は荒廃して発展することはありませんでした。

長安が発展するのは後の(ずい)(581年~618年)になってからのことです。

 

はじめての三国志全記事一覧はこちら

関連記事:董卓ってどんな政治をしたの?残虐行為だけじゃない!知識人登用に熱心だった董卓

関連記事:袁紹と何進はなぜ董卓を都へ招集したの?後漢王朝の命運を絶った大愚挙

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

 

 

関連記事

  1. 孫権
  2. 劉備との楽しい思い出を振り返る孔明
  3. 亡くなる周瑜
  4. 劉備と徳川家康
  5. 孫権の髭
  6. 曹操の使者を斬り捨てる武闘派の孔明




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“はじめての三国志倶楽部

“濡須口の戦い

“赤壁の戦い

“公孫瓚

“はじめての三国志公式LINEアカウント"

“光武帝

“三国志データベース"

“三国志人物事典

鍾会の乱

八王の乱

三国志って何?




PAGE TOP