董卓は後漢(25年~220年)の群雄の1人です。
元々、涼州を治める地方官の1人に過ぎませんが、後漢第12代皇帝の霊帝が亡くなったことを契機に、首都の洛陽に訪れて政治の実権を握ります。非常に暴虐な行為が多かったので民は苦しめられました。
しかし、最期は養子の呂布と仲違いをしてしまい殺されました。董卓は遷都を行ったことで知られています。
「せんと」と言っても、あの有名な奈良県のゆるキャラではありません・・・・・・ってそれは、せんとくんだ!
「お巡りさん、独りごとブツブツと呟いている危ない野郎がいます」
待ってください。真面目にしますので、警察だけは勘弁してください。
開始早々、読者の皆様から警察に通報されそうになった筆者でしたが話を戻します。
遷都は字の如く、都を他の場所に移すことです。
董卓は洛陽から長安に移動させたのです。その経緯はどのような内容でしょうか。
今回は董卓の長安遷都について解説します。
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董卓討伐軍の結成
初平元年(190年)に袁紹・袁術・橋冒を筆頭に諸侯が董卓討伐軍を結成しました。討伐軍といっても、『三国志演義』のように諸侯が一斉に集まっていたわけではありません。
実際は諸侯が好き勝手な行動をとっていたようです。また、率先して董卓に立ち向かう諸侯もほとんどいなかったようです。
立ち向かったのは曹操・王匡等の少数でした。しかし、そのような勇猛な人たちはみんな敗れてしまいました。
董卓の長安遷都計画
董卓は各地の諸侯が蜂起したことを耳にすると恐れました。急いで会議を開いて董卓は洛陽から長安に遷都して、後漢第14代皇帝献帝を守ることを提案しました。
しかし楊彪は、「うかつに遷都することは、反対に混乱を招くだけです」と反対しました。
董卓は説得しますが楊彪は引き下がりません。最後の切り札として、「私のもとに辺章と韓遂から長安遷都賛成の手紙が来ています」と言います。
辺章と韓遂は当時の後漢を悩ませていた西方の暴れ者です。韓遂は後に馬超と組んで曹操と戦う人です。まるで、「俺のバックにはヤ〇ザの知り合いがいるんだぜ!」という通りすがりのヤンキーレベルです。
それでも楊彪は反対するので、遂に董卓は楊彪を罷免して遷都を強行的に実行しました。
董卓の長安建設計画
こうして強行的に行われた遷都でしたが、董卓はこの長安に城を築きました。「郿城」と呼ばれています。城の高さは長安城と一緒と言われています。非常に眉唾な話なのですが、考古学が発達した近年に発掘されました。
残念ながら、まだ発掘は続いているので詳細は分かっていません。それにしても、そのような巨大な城をどうやって築いたのでしょうか。董卓は遷都前に「木材は自分の故郷の涼州から運ぶ」と言ってました。
これは推測なのですが、もし辺章と韓遂の繋がりが本当なら、彼らのツテでもらっていたのかもしれません。董卓は攻め込まれても大丈夫なように、城には30年分の食糧を詰めていたようです。
30年分というのは想像がつきません。そんな貯蔵庫がどこにあったのでしょうか。筆者は後世の創作と推測しています。
三国志ライター 晃の独り言
以上が董卓の遷都計画についての記事でした。
董卓は遷都から間もなくして、呂布の手により殺されました。
また、董卓の死後は彼の残党が政治党争を行ったので長安は荒廃して発展することはありませんでした。
長安が発展するのは後の隋(581年~618年)になってからのことです。
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