孫権が帝国として建国した呉の国には有名人じゃないけど「この人スゲーって」言われる人材がいっぱいいます。
たとえば周魴の息子・周処です。彼は孫呉に仕えますが、孫呉滅亡後に晋へ仕えます。周処はその後、晋の権力者たちにはめられて、5千の兵力で7万の異民族と戦い、自分の軍隊が全滅するまで戦い抜いた忠義の臣です。
孫呉には周処のようなマイナーだけどスゲーと言われる武将が多くいるのですが、今回はマイナー武将の一人・韋昭を紹介したいと思います。
二つの名前を持つ韋昭
韋昭は二つの名前を持つ人物です。本当の名前は韋昭だったのですが、韋曜へ強制的に改名。どうして韋昭は強制的に名前を変えることになったのでしょうか。それは韋昭の「昭」の字に問題がありました。
三国時代は蜀→魏→呉の順番に討伐されていき、最終的に司馬炎が中華全土を統一し、三国時代に幕が下ろされることになります。三国時代を統一したのは晋の皇帝・司馬炎。
そして司馬炎のパパは司馬昭です。
韋昭の「昭」は司馬昭の「昭」と字が一緒だという事で、韋昭は強制的に名前を変更することになり、韋曜と呼ばれることになります。
ついでに正史三国志でも「韋昭」の名前は使われず、韋曜の名前が使われています。
しかしここではまぎらわしいので韋昭で統一して記載していくことにします。
正史三国志の貢献者・韋昭
さて二つの名前を持つ韋昭はいったい何をした人物なのでしょうか。
それは韋昭が正史三国志の完成に大きな貢献をした事です。韋昭は孫亮が皇帝に即位した際、諸葛恪の推挙を受けて「呉書」を作るように命令を受けます。韋昭は「呉書」制作チームのトップとして華覈・薛瑩の三人と協力。
こうして韋昭率いる「呉書」制作チームは呉書を作り上げます。
そして正史三国志の作者・陳寿は韋昭達が作り上げた呉書を参考にして「正史三国志・呉書」を作り上げたそうです。
現在呉書は無くなってしまい、現存していません。
韋昭達が呉書を制作しなかったら、正史三国志の呉書の内容は大きく異なっていたはずです。そのため韋昭が果たした役割は非常に大きいと言えるでしょう。
孫晧のために何度も注意した忠臣
韋昭は孫亮死後、孫休・孫皓の皇帝に仕え、孫晧時代、皇帝・孫晧の為に間違った言葉に賛同しませんでした。
たとえば孫晧は「最近呉の各地で色々いい事が起きていると報告があるが君はどう思う」と質問。
すると韋昭は「それはあなた様に媚びろうとする者たちの間違った報告でしょう。」と孫晧の言葉にうなずきませんでした。
また孫晧は「私の父の伝を呉書に書いて欲しい」とお願いします。しかし韋昭は「あなた様の父上は皇帝になっていないので、伝を作ることはできません。」ときっぱりと拒否。
その結果孫晧は韋昭の事を嫌いになっていき、あることで韋昭が孫晧へ注意を述べた時、激怒して牢屋へぶち込んでしまいます。
「呉書」製作チームの一人・華覈は韋昭を助けるため、孫晧に何度もお願いします。
孫晧は華覈のお願いを退けて、孫晧を牢屋から出すことなく彼を殺害してしまうのでした。韋昭は孫晧の意見が間違っているから、頷かなったと見えます。
しかし暴君と呼ばれた孫晧に反抗的な態度を取るのは、彼に殺されてしまう可能性が高いと言えるでしょう(最終的には殺害されてしまうが)。韋昭はそれでも孫晧の意見に反対意見を何度も述べた事から、彼が孫呉と孫晧における忠義の臣と言えるでしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は孫呉のマイナー武将・韋昭を紹介しました。
前半で紹介した周処や韋昭のように孫呉にはまだまだ隠れた名将や忠義の臣がいっぱいいますので、この機会に色々なマイナーな武将に触れてみるのもいいかもしれませんよ。
■参考 正史三国志呉書など
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