後に魏を乗っ取る西晋(265年~316年)の基礎を築いた人物でもあります。
長子の司馬師は早く亡くなりまた、子もいなかったので、司馬昭の血筋が後を継いで西晋を建国することになります。
さて、今回は司馬昭の息子であり、西晋の初代皇帝である司馬炎に関して執筆します。
武帝とも呼ばれますが、司馬炎の方が有名なので、この記事では司馬炎で通します。
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実は皇太子候補ではない司馬炎
司馬炎は司馬昭の長子として誕生しました。幼い時から賢い子だったようです。しかし、これは皇帝によくあるエピソードなので、あまり参考になりません。
実は司馬炎はもともと、皇太子になる予定はありません。皇帝になる予定だったのは司馬昭の三男の司馬攸でした。ただし、これは司馬攸が優秀だったという理由ではありません。
前述したように、司馬昭の兄の司馬師には子がいませんでした。そのため、司馬攸が養子になっていました。
司馬師の死後、司馬昭は魏を乗っ取る時に司馬師の血筋を立てた方がよいと考えたので、司馬攸を皇太子にしようと考えました。ところが、周囲の部下の反対にあったので、この計画はダメになりました。そのため、司馬攸のお兄さんにあたる司馬炎が即位しました。
皇帝になり呉を滅ぼす司馬炎
魏の咸熙2年(265年)に司馬昭は皇帝になる準備を整えましたが直前に急死しました。司馬炎は緊急で即位して魏から皇帝の位を譲られました。
ここに魏は45年で滅び、西晋が誕生しました。その後、司馬炎は国内の統治政策に力を注ぎます。そして西晋の太康元年(280年)に呉(222年~280年)を滅ぼす準備を整えて攻め込みました。
呉の君主の孫晧は、すぐに降伏しました。ここに長きに渡る三国時代(220年~280年)は統一されました。
謎の占田法・課田法
武帝が行った独特な政策は土地政策です。通称占田法・課田法と呼ばれています。世界史の教科書でも登場するほど有名なのですが、残念ながら詳細な内容は分かっていません。
史料もほとんど残っていないようです。占田法・課田法に関しては日本では1950年代~1970年代後半まで、激しい論争が展開されました。ところが、論争にも決着がつくことも無く現在に至っています。
落ちぶれた晩年
司馬炎は天下統一後は、人が変わってしまいました。若い時は真面目で政治にも熱心だったのですが、呉を滅ぼした後は政治に関しては不真面目になりました。おそらく、天下を統一して安心したのでしょう。
呉の孫晧を降伏させた時に、孫晧の宮中からたくさんの女性が連れてこられたので、司馬炎はその女性と遊ぶようになりました。西晋の宮中の女性の数も多くいたのですが、呉からの女性を含めたせいで1万に達したそうです。司馬炎は牛車や馬車ではなく、羊が引く車で出掛けていました。
女性は羊の好む竹の葉を持ってきたり、塩をまいて羊を止めたりして司馬炎の寵愛を得ようとしました。料理屋で盛り塩がしてあるのは、この司馬炎を引き留めたい女性の話からです。また司馬炎は酒癖も悪くなり、酒におぼれてしまいました。
とてもじゃないですが、幼い時は賢かった子とは思えません。もしかしたら、これが司馬炎の本当の姿なのかもしれません。西晋の政治は乱れて外戚が力を振るうようになりました。こうして落ちぶれた司馬炎は、太熙元年(290年)にこの世を去りました。56歳の生涯でした。
三国志ライター 晃の独り言
以上が、司馬炎の生涯でした。西晋は第2代皇帝の恵帝が暗愚であったことから、外戚の専横を招き、「八王の乱」という事件を招きました。ですが、これは別の話です。
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