司馬懿は魏(220年~265年)の政治家です。三国時代(220年~280年)を統一した西晋(265年~316年)の初代皇帝の司馬炎の祖父に当たります。
この司馬懿は魏の政治家なので当然、住んでいたのは魏の都の洛陽です。今回は正史『三国志』の司馬懿の洛陽での生活について解説します。
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若い時、洛陽にあまり来なかった司馬懿
司馬懿は河内郡温県孝敬里に本籍地を置く人です。若い時は実家暮らしであり洛陽には住んでいません。故郷で経理係の仕事をして暮らしており、たまに上司に仕事の報告をするために洛陽に行く程度でした。
司馬懿の運命が変わるのは建安6年(201年)です。司馬懿の学識の高さを聞いた曹操が司馬懿をスカウトに来たのです。曹操が得意としているスカウト作戦です。
ところが、司馬懿はこの時に気が進まなかったのか「病気のリュウマチがひどいので来れません」と言って断りを入れています。司馬懿は用意周到なことに医者の診察まで受けて薬まで購入していました。
これは後で曹操から追及を受けても「本当に病気です」と言い切るためです。
謎の洛陽生活
ところが、建安13年(208年)に司馬懿は再びスカウトを受けました。また仮病で乗り切ろうとしましたが今度は曹操が捕縛してでも連れてこようとしたので、仕方なく出仕しました。
出仕した司馬懿は曹丕の教育係に任命されます。
形式上は教育係ですが、曹丕は司馬懿と友人関係になります。この司馬懿のおかげで、曹丕は曹植との後継者争いに勝利したという説もありますが、確証はありません。
やがて曹操が亡くなり曹丕が後を継いで皇帝になります。しかしこの時期の司馬懿は何をしていたのか、あまり分かりません。具体的な策を講じた形跡も残されていません。分かっているのは洛陽で悠々自適に暮らしていたぐらいです。
司馬懿のニセ隠居生活
司馬懿が曹丕の死後、第2代皇帝曹叡にも仕えます。この時期の司馬懿は遠征先と洛陽の行き来が多くなります。
蜀(221年~263年)の諸葛亮、呉(222年~280年)の諸葛瑾、遼東の公孫淵を相手にしたりして大忙しです。
まさにサラリーマン人生です。この生活が落ち着くのは、景初3年(239年)に曹叡が亡くなってからです。
曹叡の後を継いだのは曹芳です。ただし、幼かったので政治は司馬懿と曹爽が行うことになります。
曹爽は司馬懿の同僚の曹真の息子です。ところが、この曹爽は司馬懿に政治的権限の無い太傅という位を与えてしまい権力の中枢から追い出しました。追い出された司馬懿は隠居しました。
しかし、これは司馬懿の作戦です。曹爽が油断するまで、ずっと待つつもりでした。そんなある日のこと、李勝という男が司馬懿を訪ねてきました。
李勝は曹爽から司馬懿が仮病を使っていないか様子を見るように言われていました。李勝が洛陽の司馬懿の屋敷に行くとヨボヨボになっていました。李勝はちょうど荊州刺史に任命されたばかりだったので、それを司馬懿に報告しました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「司馬懿殿、実は今回の人事で荊州刺史に任命されました」
「併州ですか?あそこは寒いですよ。気を付けてください」
「いや、併州ではなくて荊州です」と李勝は言いなおします。
ですが、司馬懿は「併州は遠いですからね・・・・・・」と聞く耳を持ちません。すると、近くにいた司馬懿の息子が「父は最近、耳が遠くなりました」と説明します。そこで李勝は納得しました。
さらに、司馬懿は食事をこぼしたりしてまるで子供と一緒でした。李勝は見ていられなくなり、帰ることに決めました。李勝が帰った後に司馬懿は、すぐに起き上がりました。
「李勝は私のことを曹爽に報告するだろう」
李勝からの報告を聞いた曹爽は、すっかり油断してしまい、司馬懿への警戒を怠ります。司馬懿はその隙に政権を奪取して曹爽を処刑しました。
三国志ライター 晃の独り言
こうして曹爽を打倒した司馬懿は、今度こそ隠居して間もなく亡くなりました。司馬懿の洛陽生活は若い時は、不明な所が多いですが老齢になると、はっきりしているのです。
司馬懿と曹爽が争った政治抗争については、またいつか解説します。
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