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曹操の負け戦である濮陽の戦いはどんな戦い?

2019年8月2日


 

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曹操

 

初平4年(193年)に曹操(そうそう)の父の曹崇(そうすう)は戦乱を避けるために避難していたところ、徐州の長官の陶謙(とうけんの部下により殺されました。

 

曹操を裏切る陳宮

 

曹操は父の報復を口実に徐州に攻め入りますが、その隙に部下の陳宮(ちんきゅう)が裏切って呂布を領地の兗州に引き入れます。濮陽で1年以上の激しい戦闘の末に呂布を撃退しますが、曹操にとっては半分敗北・半分勝利となります。

 

この戦いを「濮陽の戦い」と言います。今回は「濮陽の戦い」の発端について解説します。

※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操の徐州大虐殺と兗州名士の動揺

処刑を下す曹操

 

初平4年(193年)に徐州に攻め込んだ曹操は行く先々で民を殺します。名目上は父の復讐となっていますが、当時の中国は袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)の2人が天下を争っていました。

 

 

逃亡兵の妻子に処罰を加える法律

 

曹操は袁紹に、陶謙は袁術についたので、この虐殺は天下分け目の戦いの1つでもあります。ところが、この虐殺にびびった人たちがいたのです。それは曹操の領地の兗州の名士。

 

曹操

 

名士とは当時の知識階級の人たちを指します。兗州で名の通った陳宮や辺譲(へんじょう)といった名士は、徐州大虐殺を聞くと「曹操ってヤバイやつだ・・・・・・」と感じちゃいます。

 

 

 

クズ野郎辺譲

自称皇帝闕宣のイケイケ人生 陶謙、曹操

 

そこで兗州の名士は全てアンチ曹操に回ります。その代表的人物が辺譲です。辺譲は博学と弁舌の才能があることで知られており、かつては大将軍の何進(かしん)にも仕えていました。

 

腐れ儒者気質な孔融

 

また、孔融(こうゆう)・王朗(おうろう)といった人物からも高い評価を受けています。読者の皆さんなら予想がつくと思いますが、辺譲は孔融の友人なのでプライドの塊です。

 

案の定、辺譲は曹操が宦官の子孫であることをネタに徹底的にこき下ろします。

 

「俺は大将軍に仕えたり、太守にまでなったんだぞ。俺に手を出せるものなら、やってみろ!」

 

現代にもいますよね、こんなクズ・・・・・・当時の曹操は位も低いし、兗州の長官も緊急で就いたので朝廷からの正式任命ではないので、ここまで馬鹿にされたのです。そして、こういう時は絶対に調子に乗るやつが、1人や2人登場します。曹操と同郷の袁忠(えんちゅう)と桓邵(かんしょう)です。

 

「辺譲さんが言うのなら俺たちも・・・・・・」と曹操をイジメます。

 

 

辺譲殺害事件と呂布の侵入

曹操

 

 

しかし、いつまでも黙っているほど曹操は大人しくありません。なんと辺譲を殺してしまいます。子分の袁忠と桓邵も逃げますが捕縛されて殺されます。桓邵に至っては命乞いまでしますが、曹操は「そんなことすれば許してもらえると思った?」と言って斬り捨てます。

 

だが、これは曹操にとって汚点となりました。いくら悪質な連中だったからといって、殺したのは名士ばかり。おかげで兗州の名士の心が曹操から完全にエスケープ。特に陳宮は曹操ではなく別の主を見つけようと画策して、その結果、曹操が陶謙討伐に時間を割いている間に呂布を兗州に入れたのです。

 

 

夏侯惇と呂布

 

 

呂布は当時、袁紹と袁術からも見捨てられた流れ者。陳宮が呂布のどの部分に魅力を感じたのか筆者は分かりませんが、呂布が虐殺を行ったという話を聞いたことはないので、曹操よりもマシだと思って入れたと推測されます。

 

 

曹操から水攻めを受ける呂布

 

陳宮の裏切りを聞いた曹操は驚き、急いで引き返して1年以上に渡り呂布と戦い、どうにか呂布を撃退します。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

 

以上が「濮陽の戦い」の要因の解説でした。曹操はこの戦いの教訓から、意味の無い虐殺や部下の死刑は行っていません。

 

 

許攸 兵糧のありか教えますひひひ

 

もちろん、許攸(きょゆう)のように主君と部下の分別がついていないやつは、普通に死刑にしていますが、それは別と思ってください。それにしても、馬鹿にされたから人殺しをするなんて曹操も若かったのですね(笑)

 

※参考文献

・易中天(著)・鋤柄治郎(訳)『三国志 素顔の英雄たち 上巻』(冨山房インターナショナル 2008年)

 

・渡邉義浩『図解雑学 三国志』(ナツメ社 2000年)

 

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三国志とお金の話

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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