北伐で諸葛亮と敵対?昔のクラスメイト孟建と戦うことになった奇妙な関係性

2019年8月10日


 

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荊州(けいしゅう)でキャンパスライフを送っていた若き日の諸葛亮(しょかつりょう)には、幾人かの学友がいました。以前に紹介した徐庶(じょしょ)崔州平(さいしゅうへい)もそうですが、それ以外にも孟建(もうけん)という人物も諸葛亮と交際があった事が知られています。

 

そして、この孟建、後に魏に仕え、北伐では孔明と敵対したかも知れないいわくつきの人物なのです。今回の、はじめての三国志は、地味ながら諸葛亮のライバルだったかも知れない孟建について解説してみます。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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100%スカしている学生時代の諸葛亮

孔明

 

荊州で遊学している時代の諸葛亮は、自意識が高くスカした嫌な青年だったようです。正史三国志蜀書、諸葛亮伝が引く魏略(ぎりゃく)によると、スカしっぷりは以下の通りです。

 

諸葛亮は荊州に在った頃、建安のはじめに潁川(えいせん)石広元(せきこうげん)徐元直(じょげんちょく)汝南(じょなん)孟公威(もうこうい)と共に遊学した。孔明以下の三人は熱心に経書を精読して、一字一句を暗記しようと努めたが、諸葛亮は経書の内容を大まかに知ると勉強をやめて昼夜のんびりすごし片膝を抱えて歌や詩を歌っていた。

 

そして三人には、「チミたち三人は仕官すれば刺史・郡守にはなれるだろう」と上から目線で評価し、逆に三人が意趣返しで「チミはどこまで出世するんだい?」と聞くと諸葛亮は笑って答えなかった。

 

正史三国志蜀書 諸葛亮伝 魏略

 

 

ね、もう100%スカしてるでしょ?

 

建安は196年から始まるので、181年生まれの諸葛亮は15歳位ですか、もう人生でも最強最大の生意気の盛りですね。今なら、アニメや漫画に影響された末に腕に八匹の龍をマジックで描いて「平穏に暮らしたいけど、腕の八匹の龍が、俺を戦乱の渦に巻き込まずにはおかないのさ」みたいに一人悦に浸る中二病ライフを送ったでしょう(推測)

 

 

 

孟建が故郷に帰ると聞いて慌てて引き留める孔明

ドケチな孔明

 

そんな風に大物ぶってスカしていた孔明ですが、大事件が起きます。学友の孟建が里心(さとごころ)を出して、汝南に帰って勉強すると言い出したのです。それに対して魏略で孔明は、こう言って孟建を引き留めています。

 

「中国には士大夫が(あふ)れている。どうして故郷でのみ遊学しないといけないのか!」

 

荊州にだって切磋琢磨(せっさたくま)できる人材は沢山いるじゃないかどうして、故郷に帰るなんて言うんだという意味でしょう。一見すると、友達が去ってしまう事を寂しがっているように見えますが、これは恐らく表向きの事だと思います。

 

孔明は、徐州の混乱の中で本貫地を出ており、故郷に後ろ盾になる一族はいません。縁故があまりない根無し草なのです。今は、従父(じゅうふ)諸葛玄(しょかつげん)の尽力で、荊州で司馬徽(しばき)や、龐徳公(ほうとくこう)の知遇を得ていますが、それでも、蔡瑁(さいぼう)一派が牛耳る荊州閥に入り込む事は容易ではありませんでした。

 

 

ところが孟建には故郷があり、帰るという事は面倒を見てくれる一族がちゃんと存在しているという事でしょう。当然、仕官の口だって、わいわいと世話してくれそうでした。「もし、孟建が汝南に帰れば、きっと自分より早く仕官するに違いない」孔明は、そう推測し強い焦りを感じたので帰郷に猛反対したわけです。

 

ちなみに汝南とは豫州(よしゅう)汝南郡の事で、荀彧(じゅんいく)郭嘉(かくか)の出身地の潁川(えいせん)の隣で、軍師の宝庫として曹操が人材スカウトで重視していた土地でした。もちろん孔明は、それ位の事は承知していた筈で、俺より先に仕官されてたまるか!と必死だったのでしょう(推測)ハッキリ言えば、諸葛亮ちっちゃ!という話だったのです。

 

魏のマイナー武将列伝

 

 

北伐の戦場で孟建と遭遇する諸葛亮

孔明のテントがある野外のシーン

 

孔明の予想(危惧(きぐ)?)は当たり、まもなく孟建は故郷に帰り魏に仕官しています。そして、順調に昇進して、温恢(おんかい)没後に涼州刺史として赴任しました。興味深いのは、その時期が魏の文帝の時期という事です。となると、間もなく始まる諸葛亮の北伐の時期とぴったりと重なりますね。

 

史書には孟建と諸葛亮が直接戦場で対峙した事を示す記録はないですが、どうも諸葛亮が孟建を意識していたかのような史料が魏略にあります。

 

 

諸葛亮は後に祁山(きざん)に出征すると、司馬懿の書簡に答え杜襲には孟建に意を()べさせた。

 

孔明

 

これは北伐時の事のようですが、司馬懿(しばい)の使者としてやってきた杜襲(としゅう)に「孟建に元気にやっていると伝えてくれ」と伝言を残しているのです。普通に考えると、ただの時候(じこう)の挨拶ですが、相手の孟建は戦場になっている涼州の敵の刺史です。本当に、何のわだかまりもない時候の挨拶でしょうか?

 

むしろ逆に、「見よ孟建、私の方が上に立ってやったぞ参ったか!」そんな意図が組み込まれているように思えます。諸葛亮のライバル心は、歳月を経ても消えず、石ノ森章太郎の才能に嫉妬しまくっていた手塚治虫のように燃えていたのです!(多分)

 

 

北伐で手柄を立てた?征東将軍になった孟建

順調に将軍まで出世する陳武

 

その後の孟建ですが、なんと涼州刺史からさらに昇進して、征東将軍(せいとうしょうぐん)に就任しています。この征東将軍、二品で、丞相のすぐ下というかなりの高位であり、職務は寿春(じゅしゅん)に駐屯して青州・徐州・揚州・兗州(えんしゅう)の刺史を()べる事だとEnpediaには書かれています。

 

かつて、曹休(そうきゅう)が就任したと言えば大変な要職だと分るでしょう。孟建は、学生時代の孔明の評価を超えて、諸葛亮の地位にかなり肉薄していたと言えると思います。

 

虎豹騎を率いる曹休

 

しかし、征東将軍にまで出世した割には、孟建の手柄は地味です。涼州刺史として能治の名声があったというような簡単な記述だけしかありません。ここからは推測ですが、孟建には諸葛亮の北伐を阻止する事に貢献するような、大きな戦果があったのではないでしょうか?

 

例えば、孔明の学友である事を利用して、その性格や行動パターンを司馬懿にすっかり喋ってしまったとか、、実際に戦争に参加して、蜀軍に打撃を与えてしまったとか・・史書に記録されていないか、抜け落ちてしまった大きな戦果がないと征東将軍まで昇進しないと思うんですが、読者の皆さんはどう思いますか?

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

孔明の学友と言えば、徐庶のように劉備(りゅうび)に義理立てして、魏の為に特に仕事をする事なく終わった美談めいた人もいますが、「友情は友情、戦争は戦争」で、孔明をコテンパンにやっつけた孟建のような人もいたとしたら面白いですけどね。

 

それにしても孟建はかなり優秀な人物であったようです。ライバルの多い魏で、王族の曹休並みに出世するんですからね。もしかすると、個人の能力では諸葛亮よりも、上回る点が沢山あったかも知れませんよ。

 

参考:三国志軍事ガイド/ 篠田 耕一 / 新紀元社 (1993/11/1)

 

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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