袁紹は実は名将だった!?死闘「界橋の戦い」の巻




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曹操にコテンパにされる袁紹

 

袁紹(えんしょう)は後漢(25年~220年)末期の群雄の1人です。一時は天下統一寸前まで行きましたが、建安5年(200年)の官渡の戦い(かんとのたたかい)曹操(そうそう)に敗北して覇権争いから脱落しました。よく袁紹は優柔不断でダメな奴という印象がありますが、それは大間違い!

 

袁紹

 

実は袁紹は、かなりの名将だったのです。今回は袁紹の活躍について解説していきます。

※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

自称・皇帝
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宦官討伐 勝利するも兵士の指揮は難しい

袁紹が宦官を惨殺に行く

 

袁紹は群雄として独立する前は、大将軍の何進に仕えていました。大将軍と言っても何進(かしん)は武将の出身ではなく、かつては肉屋の主人でした。異母妹が後漢第12代皇帝霊帝(れいてい)の皇后に迎え入れられたので、出世しただけです。

 

何進

 

何進の出世を手伝ったのは宦官(かんがん)でしたが、出世すると宦官が邪魔な存在と何進は思いました。霊帝が亡くなると何進は袁紹と一緒に宦官討伐の計画を立てます。ところが、この計画には何進の妹の何太后が消極的です。仕方ないので何進は丁原・董卓などの諸将を洛陽に召し出すことで何太后に圧力をかけました。

 

宦官

 

さすがに、これはまずいと思った宦官も反撃に出ます。ある日、何進に話があると言って呼び寄せました。何進は何も疑わずに宦官のいる所に向かいますが、あっけなく殺されました。

 

何進の死を知ると袁紹は異母弟の袁術と一緒に宮中に攻め込みます。張譲(ちょうじょう
)
趙忠(ちょうちゅう
)
段珪(だんけい
)
を筆頭に多くの宦官が袁紹たちにより討たれます。

 

宦官VS外威 三国志

 

後漢をむしばんでいた宦官は、こうして掃討されたのでした。ただし、兵士たちは怒りに任せて突撃したので、文官の格好をしていたり、ヒゲが無い人を見れば宦官と決めつけて襲い掛かっていたのです。

 

おかげで多くの無関係の人が巻き添えになりました・・・・・・

 

宦官

 

中には「自分は宦官じゃない!」と言って、ヌードになって証明した人もいたようです。兵士にとっては、最悪極まりなきサービスシーン(笑)この戦いは袁紹のデビュー戦であり勝利もしますが、兵士の指揮は難しいと知ることになった一戦になったと思われます。

界橋の戦い 漢だぜ袁紹!

袁紹軍は石弓兵が強い

 

初平元年(190年)の董卓討伐軍で群雄の盟主になった袁紹は着実に勢力を伸ばし始めます。初平2年(191年)には冀州の長官である韓馥から領地を奪って地盤を固めました。

 

光武帝(劉秀)

光武帝(劉秀)

 

袁紹のプランは北中国を制圧後に南下して南中国を制圧するものです。これは後漢初代皇帝・光武帝(こうぶてい)が行ったプランを踏襲しています。 しかしながら、北中国の制圧には1人の男の存在が邪魔でした。

 

公孫サン(公孫瓚)

 

その男は公孫瓚(こうそんさん)

 

白馬義従の公孫サン

 

公孫瓚は烏丸という異民族の討伐で功績を挙げた将軍でした。また、「白馬義従(はくばぎじゅう)」という騎射に優れた精鋭の騎馬隊を操っているので、まともに正面からぶつかれば勝つことは不可能!

 

そんな矢先に公孫瓚が冀州に侵攻してきました。袁紹はそこで麹義(きくぎ)に出陣を頼みました。麹義は長い間、涼州にいたので異民族の戦術には慣れていたのです。麹義は弩(ボーガン)の部隊を用意しました。一方、袁紹も歩兵を率いて後方に陣を構えます。

 

公孫サン(公孫瓚)

 

さて、公孫瓚は出陣すると袁紹の軍勢が少ないことから勝利を確信して突撃開始!ところが、麹義の弩部隊の放った矢が次々と命中して敗走となりました。最初の一戦で公孫瓚軍の厳剛を討たれます。

 

田豊

 

しかし、公孫瓚も負けじと反撃して袁紹と田豊(でんほう
)
の後方の陣を包囲して矢で攻撃。

 

袁紹を説得しようとする田豊

 

危険なので田豊は袁紹を避難させようとしますが、「漢は突き進んで死ぬのが当たり前だ。避難しろなんて、バカなことを言うもんじゃねえよ」と格好よく決めゼリフを吐きます。だが、格好よく決めてもピンチに変わり無し・・・・・・

 

さあ、どうする袁紹?

その時、次々と矢が飛んできて公孫瓚軍を撃破しました。麹義が助けにきたのです。最後の力を振り絞って袁紹は公孫瓚軍を蹴散らします。

 

公孫瓚を倒した袁紹

 

公孫瓚は、この界橋の戦い(かいきょうのたたかい)で袁紹に敗北したことにより、天下統一の覇権争いから脱落します。そして建安4年(199年)に袁紹に攻撃されて滅ぼされました。


三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が袁紹の名将としての活躍を描いた解説でした。今回の筆者が執筆した界橋の戦いに関しての記事は正史『三国志』の本文には記載されておらず、劉表と曹操に仕えた王粲が執筆したと言われている『英雄記』という書物に記載されている内容です。

 

早くから散佚したのですが、明(1368年~1644年)の王世貞が『三国志』の注に引かれている内容や他の書物から佚文を集めて、可能な限り復刻に成功しました。筆者の王粲は界橋の戦いの時期である初平2年(191年)は、長安の朝廷に仕えていた時期なので実際の戦場は見ていませんし、袁紹にも会ったこともありません。

 

「それじゃあ、これは王粲の書いた小説ですか?」と読者の皆様は思うかもしれません。

 

そうとも限りません。これは筆者の想像の域なのですが、界橋の戦いの記述は官渡の戦いで降伏した元・袁紹配下の張郃・高覧・などから話を聞いて書いたと推測しています。そう考えないと、ここまで細かく描写が出来ませんからね・・・・・・

 

読者の皆様はどう思われますか?

 

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思ったこと・感じたことがあれば、ドンドン送ってください。内容は今回の記事だけじゃなく、昔の記事の内容でも構いません。

 

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