【司馬炎の晩年苦労話】子孫繁栄出来るかな?


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司馬炎(はじめての三国志)

 

司馬炎(しばえん)西晋(せいしん
)
(280年~316年)の初代皇帝です。武帝(ぶてい)とも言いますが、司馬炎が有名なので、この記事では司馬炎で通します。

 

三国志を統一した司馬炎

 

司馬炎には子供がいますが、あまり有名ではありません。そこで今回は司馬炎の子と孫について紹介します。

 

自称・皇帝
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不適切な発言をする2代目・司馬衷

幼い司馬衷

 

司馬炎の後を継いだ子は司馬衷(しばちゅう)と言います。第2代皇帝恵帝(けいてい)です。ただし、司馬衷は皇太子時代から性格に問題がありました。彼は飢饉で民が苦しんでいる姿を見て衝撃の発言をします。

 

「米が無いのか・・・・・・ならば、肉を食えばいいじゃないか」

 

どこかで聞いたようなセリフですね。フランスのマリー・アントワネットの名セリフに類似しています。しかし、あれはマリー本人が言ったという証拠は全く無いと現在では言われています。

 

だが、恵帝のセリフは史料にも残されていますので事実と考えられています。父の司馬炎は民のことを真剣に考えない息子に頭を悩ませます。

 

一時は後継者にすることも中止しようと考えましたが、皇后の楊氏が「後継者は長男を立てるのが本筋です。賢い人物を立てるべきではありません」と猛反対したので、仕方なく司馬衷を後継者に決めます。

 

 

弟を後継者に望む

悩む司馬炎

 

ところが、司馬炎はやはり司馬衷を後継者から外すつもりでした。皇后の楊氏が泰始10年(274年)に亡くなると、司馬炎は弟の司馬攸を後継者に立てる計画を立てます。

 

司馬攸

 

司馬攸は司馬炎の弟であり学問に優れていたことから、かつては司馬炎と後継者争いをしました。また、近年の研究では陳寿が正史『三国志』を執筆する時に曹丕(そうひ)曹植(そうしょく)の後継者争いは司馬炎・司馬攸(しばゆう)の後継者争いをモデルにしたと言われています。

 

曹髦の暗殺許可を出す賈充

 

司馬炎はかつて、争った弟を後継者にすることで和解を試みました。しかし、これに反対したのが側近の賈充(かじゅう
)
荀勗(じゅんきょく
)
・荀凱です。彼らは必死で司馬衷を擁護して、最終的には司馬攸を山東省にまで追放します。

 

司馬攸は山東省に赴く途中で喀血してこの世を去りました。


司馬懿2世 司馬遹

 

それでも司馬炎は諦めません。今度は司馬衷の子の司馬遹(しばいつ)に望みを託します。司馬遹は5、6歳の時に司馬炎に連れられて豚小屋に行きました。

 

「おじいちゃん、豚はあんなに丸く太っているのに、何故殺して兵士にあげないの?」

 

父親の司馬衷とは頭の回転が雲泥の差です。司馬炎はすぐに豚を料理して兵士に与えました。

 

「孫は絶対に王朝を再興してくれるだろう」と、司馬炎は安心します。周囲の人々も司馬遹を「司馬懿の生まれ変わりだ」と喜びました。

 

だが、司馬遹は後継者として不安定な存在でもあります。彼は司馬衷の正室の賈氏との間の子ではなく、側室の謝氏との間の子でした。しかも謝氏の出身は肉屋です。現代では考えられませんが、肉屋は非常に卑しい商売と見られていたからです。

 

また、成長するにつれて司馬遹はボロを出しました。遊んでばかりで学問・政治にも興味ゼロ。好きなことはなんと商売だったのです。

 

人々は「やっぱり肉屋の子か・・・・・・・」とガッカリしました。


司馬炎の死と西晋崩壊への歩み

 

永熙元年(290年)に司馬炎はこの世を去りました。

 

司馬炎は死の間際に、司馬衷だけに政治を任せるのは心配なので叔父の司馬亮に後見役を頼みます。ところが、運悪くその情報が外戚(=皇后の一族)の楊駿(ようしゅん
)
に漏洩しました。楊駿は悪知恵を働かせて危篤状態の司馬炎に対して「これからの政治は楊駿にお願いします」と頼みます。病気が重たい司馬炎は「・・・・・・うーん」とわけも分からず頷きました。

 

結局、それが詔勅となってしまい楊駿が実権を握ることになります。もちろん、司馬亮は失脚です。

 

西晋史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

こうして外戚の楊一族が実権を握りますが、それに対して気に入らないのが恵帝の皇后の賈氏やその一派でした。外戚と外戚が争いを始めて、さらに司馬一族も絡んで帝位をめぐっての内戦に発展しました。

 

これを「八王の乱(はちおうのらん
)
」と言います。帝位をめぐっての争いは昔から珍しくないのですが、この争いは尋常ではなく民も周辺異民族も巻き込んでいきます。

 

実は三国時代(220年~280年)以上に恐ろしい時代は、西晋から(ずい)(589年~618年)の統一までの270年間と自分は考えています。毎日のように殺戮が繰り返されて、民は全く心が休まる気配が無かったと思います。筆者は生まれてこなくて、本当によかったと思っています。

 

※参考文献

・狩野直禎『三国時代の戦乱』(新人物往来社 1991年)

 

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