最近のはじ三の読者アンケートの声に、
という意見がありました。
確かに私達は、官渡の戦い、赤壁の戦い、夷陵の戦いなど三国志の時代に起きた戦争については知っていますが、それがどのように始まりどのように終わるのか具体的には知りません。
宣戦布告はあったのか?停戦は?負けた時にはどうしていたの?
今回は、そんな細々した事を正史三国志を紐解いて調べてみます。
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この記事の目次
宣戦布告は檄文
中国でも春秋時代には、律義に戦いの期日を決めて開戦していた時代もありました。
しかし、その内に勝つためには、奇襲を掛けるのも当たり前になってモラルは崩壊宣戦布告の習慣は廃れて行ったようです。
ですが、何も一切の宣戦布告が消滅したのではなく、三国志の時代にも檄文という形で宣戦布告らしき事はやっていました。
原文は不明ですが、西暦190年の正月に東郡太守の橋瑁という人物が、三公の公文書を偽造し董卓に対する挙兵の檄文を各地の諸侯に送っています。
これは、間もなく董卓の知る所になったと思われるので、事実上の宣戦布告であると言えるでしょう。
陳琳が書いた曹操への宣戦布告文
内容を含め存在が分かる宣戦布告の檄文は、西暦200年袁紹が曹操と事を構えた時に曹操の非を鳴らし、味方を集める為に
中国全土にばら撒いたもので、建安七子として有名な陳琳が書いた為袁紹檄豫州文です。
この檄文の内容は、最初、劉備をベタ褒めする所から始まり次に曹操を祖父の曹騰の時代に遡ってボロクソに貶して悪党と罵り
反対に、袁紹の挙兵にいかに大義があるかを強調しているものです。
最期は、曹操の首を獲った者には、五千戸の食邑と五千万銭の賞金を出すみたいな事を書いて結んでいます。
内容から考えて、これを読んで曹操が防備を固めないとは思えず、事実上、この檄文が宣戦布告である事は疑いありません。
※kawa註
為袁紹檄豫州文は、漢文で内容が長く翻訳も見当たらないので翻訳が面倒臭く本編に関係ないので掲載しませんが
文選に名文として収められているので興味がある人は読んでみて下さい。
また、短いですが、三国志呉主伝が引く江表伝では、赤壁の戦いの前に曹操が宣戦布告と降伏勧告を同時に出しています。
近頃、辞を奉じて罪を伐ち、旄麾は南を指し劉琮は降伏した。
現在は水軍八十万の手勢を手中に収め、まさに将軍と呉で狩猟がしたい
江表伝
狩猟がしたいというのは、中原に鹿を追うという意味で、孫権に対して、天下を懸けて争おうと呼びかけています。
詩人でもあった曹操の風流な宣戦布告&降伏勧告文ですね。
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停戦の方法
戦争は、双方ともに莫大な費用と物資を動員するので、ずっと戦い続けられるとは限りません。
三国志でも、西暦194年、兗州の覇権を争っていた曹操と呂布ですが、その年は不作を原因とする蝗害が発生して人民が餓える事態になり、
戦争どころではなくなったので、双方とも停戦して兵を引いています。
この間にも、相互で交渉があったとは思いますが、残念ながら、その詳細については記録にありません。
停戦1潼関の戦い
一方で、戦争途中で停戦し交渉を持った事がはっきりわかるケースもあります。
それが、西暦211年に起きた潼関の戦いでの曹操と馬超・韓遂が率いる関中連合軍の場合です。
関中の独立を求めて曹操に反旗を翻した関中連合軍ですが戦線が膠着すると、曹操に対して頻りに黄河西岸より西の支配権を求めます。
曹操は聞く耳を持ちませんでしたが、馬超と韓遂の仲を裂く事を目的に二度会談をしているようです。
それによると、曹操は騎馬による突撃を警戒し馬防柵を造り、柵の内側で韓遂や馬超と会談しています。
同時に、柵の外側に五千騎の重武装した騎兵を十重に配置し、鎧が太陽にきらめいていたというので、交渉と同時に騎兵の精強さを見せつける
デモンストレーションの意味もあったのでしょう。
会談の場所に柵が造られたらしい事は、会談が始まると秦胡(異民族)の兵が前後に踏み重なり曹公を一目見ようとしたという記述で分かります。
一般の兵士は、柵の内側には入れないので、馬を降りて柵に縋りつき曹操を見ようと踏み重なって集まっていたようです。
こうしてみると、精強で知られた異民族の騎兵も戦争を離れると珍しもの好きな人懐っこい人々だったんですね。
戦いの日時を決め関中騎兵を破った曹操
また、潼関の戦いでは曹操が珍しい事をしているのが記録されています。
馬超と韓遂を離間の計で疑心暗鬼にさせた後、曹操は日時を定めて関中軍閥と騎兵同士の会戦をやっているのです。
公乃與克日會戰 先以輕兵挑之 戰良久 乃縱虎騎夾撃 大破之
三国志魏書武帝紀
最初に軽騎兵で戦い、交戦が長引くと秘蔵の虎豹騎を放って敵騎兵を挟撃、これで、完全に関中軍閥は崩壊してバラバラに逃げていきました。
戦いの日時を決めるのは、春秋時代にはよくありましたが、三国志の時代には珍しい事です。
停戦2荊州争奪戦
西暦217年には、劉備が益州を得た事で、荊州を貸したつもりの孫権と、そのまま居座ろうとする劉備の間で荊州争奪戦が起きました。
荊州の南半分には、江夏、長沙、桂陽、南郡、零陵、武陵の六郡があり孫権は、その中で長沙、零陵、桂陽を返すように要求します。
しかし、劉備は、のらりくらりと言い訳をして返還を引き延ばします。
それに対して、孫権は激怒し、呂蒙に命じて長沙、零陵、桂陽を奪取しました。
それに対して、劉備も激怒して関羽に命じて出兵し、呂蒙と関羽は一触即発の状態に陥ります。
事態を回避する為に、孫権に脅された魯粛が関羽と交渉する為に出てきます。
三国志呉志魯粛伝には以下のようにあります。
肅住益陽 與羽相拒 肅邀羽相見 各駐兵馬百歩上 但請將軍單刀倶會
意訳:魯粛は益陽で関羽と相対して、将軍同士で交渉しようと持ち掛け、双方が百歩の位置に兵を停めて、軍刀一本だけを手に赴いた。
宿舎があるような描写は見えないので、これも潼関の戦いのケースと同様青空会談ではないかと推測します。
百歩というのは現在で言う160メートルで、呂布のような剛の者でようやく弓矢が届く距離ですが、
だとしても自分のすぐ後ろに軍が控えた上での交渉はかなり迫力があった事でしょう。
降伏の方法
降伏の方法については、正史三国志でも随所に見る事が出来ます。
かなり詳しい記述としては、正史三国志ではありませんが、司馬懿の伝である晋書高祖宣帝懿紀に出てくる遼隧の戦いがあります。
西暦239年に、司馬懿の軍勢に襄平城を包囲された公孫淵は、近くに彗星が落ちた事で不安に恐れ慄き、相国の王建や御史大夫の柳甫を派遣して
包囲を解いてくれれば、自らを縛った形で降伏しますと願い出ますが、司馬懿はこれを許さずに使者を斬っています。
三国志蜀志法正伝では、西暦212年、雒城に籠城した蜀軍に対して、法正が牋(書きつけ)に長々とした降伏勧告文を書いて
降伏を呼び掛けていますが、劉璋は応じませんでした。
その後、劉璋は成都が包囲されると劉備の側近の簡雍の勧告に従い降伏しています。
自分の元部下の降伏勧告には動かず、赤の他人の簡雍には従うというのは、いかに戦況がそれだけ悪化したとはいえ、
法正の信用の無さが浮彫りになってきますね。
降伏1蜀滅亡のケース
降伏の一部始終について文書が残っているのは西暦263年の蜀滅亡です。
西暦263年の冬、魏の鄧艾が姜維の守る剣閣をショートカットして断崖絶壁を転がり落ち、
綿竹を守っていた諸葛亮の遺児、諸葛瞻を綿竹で破ると、いよいよ落ち着かなくなった劉禅は光禄大夫譙周の献策を用いて、
鄧艾に降伏文書を出しています。
これまた長いので、簡単に説明すると以下の通りです。
長江と漢水を境界として、地の利を貪り天命に逆らう事何十年となりました。
今思えば、黄初中に文皇帝(曹丕)が虎牙将軍鮮于輔に命じて、内密の詔勅を与えて下さり降伏するように仰って下さったのを、
愚かな私は黙殺してしまい、長い歳月が過ぎてしまったのです。
すでに、天が震えるほどの威徳を持たれている魏王朝に服従するのは天の定めた所、愚かな私も心を入れ替えて降伏せずにはおられません。
とまあ、こんな具合で全面降伏という感じです。
劉禅の降伏文書を携えた張紹(張飛の息子)と鄧良は雒県で鄧艾と遭遇し無事に降伏文書を手渡す事に成功します。
鄧艾は喜び、早速返事を書いて張紹と鄧良に手渡し成都に帰還させました。
こうして、鄧艾が城北に至ると劉禅は自分の柩を部下に担がせ、体を縄で縛って鄧艾の軍門に降りました。
それを受け入れた鄧艾は、劉禅の縄を解いて柩を焼き、室内に招いて承制に従い劉禅を車騎将軍として拝礼したとあります。
これらを見ると、降伏文書を出して受諾されると、自分の柩を曳いて自身を縄で縛り敵陣に歩いて投降するのが
当時の降伏の作法だった事が分かります。
三国志ライターkawausoの独り言
以上、正史三国志から、宣戦布告、停戦、降伏についてを調べてみました。
戦乱の世の中でルール無用にみえても、つぶさに見てみると、それぞれに共通するルールもありなかなか面白いです。
読者の皆さんは、三国志の時代の戦争の作法について、どのように感じましたか?
参考文献:正史三国志 晋書
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