適者生存という言葉があります。
自然界で生き残るのは、強い種ではなく環境に最も適した種であるという説です。
これは、何も自然界ばかりではなく人間社会でも当てはまります。
三国志ではボンクラ君主と見られがちな劉表や劉璋が天下を取れなかった理由も後漢の行政システムに最適化した結果であるとも言えるのです。
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この記事の目次
皇帝の下に横並び中央集権の弊害
後漢の時代の地方の行政ポストの長と言えば、州牧、州刺史、郡太守、県令という三国志に詳しい人ならお馴染みの名称が並びます。
しかし、これらのポストは上下関係にないというのは、あまり知られていません。
中央集権制では皇帝が頂点であり、その下には序列はあっても上下はありません。命令は全て皇帝から出ているのであって、州牧から郡太守には出ないのです。
それは後漢末の群雄割拠になっても、変化しませんでした。
これはつまり、群雄が州牧や州刺史になっても、その支配下の郡太守や県令が無条件でその命令に従うわけではない事を意味していました。
皇帝の命令でない限り、州牧や州刺史の下の序列の郡太守や県令は、命令を拒否する事が出来たわけです。
劉表でも劉璋の父、劉焉でも同じで、赴任すると地元豪族を味方につけ自分に反抗する県令や太守を攻め滅ぼす所から統治を始めています。これは、例え州牧であろうと権威だけで下部組織が従うわけではない証拠を示しているのです。
長沙太守張羨の反乱に苦しんだ劉表
州牧の下部組織の郡太守が従順ではないケースを挙げましょう。
例えば、劉表の支配した荊州には、南陽郡、南郡、江夏郡、零陵郡、桂陽郡、武陵郡、長沙郡の7郡が存在しましたが、この中で長沙太守の張羨が西暦200年頃に劉表に叛きます。
張羨は荊州七郡で、桂陽、零陵の太守を歴任して長沙太守になります。
彼は博識で人望を得ていたものの屈強で人に従わない性格であり上司である劉表に嫌われていたと書かれています。
西暦200年、劉表が袁紹につく態度を明らかにすると張羨は、長沙、桂陽、零陵の3郡をまとめて同時に蜂起しました。
蜂起の理由は劉表が逆賊である袁紹と手を組んで献帝を擁している曹操と敵対した為でした。
ここには張羨がなおも後漢王朝に仕えている矜持があり、それを蔑ろにする劉表にハッキリとノーを突きつけている図式があります。
劉表が州牧で上級の行政官だから一も二もなく従う(そんな太守も多くいたでしょうが)わけではなかったのです。
曹操は、張羨から来た使者に喜びますが袁紹と激闘中であり、援軍が出せませんでした。
やがて張羨は病死しますが長沙の民は張羨の息子の張懌を押し立て劉表に抵抗し最終的に鎮圧されました。
しかし反乱は三年も継続し、根強いものでした。
後漢の威光に右往左往する劉表
七郡ある郡の三郡に叛かれた劉表はかなり不安になったようです。
そこで、曹操が袁紹を破って華北を制覇すると、韓嵩、劉先が曹操に帰順する事を勧め、蒯越もそれに賛成しました。
しかし、劉表は決心がつかず韓嵩を派遣して様子を見ます。
帰国した韓嵩は曹操の素晴らしさを述べ、子供を人質に出すように言います。これに対し劉表は韓嵩が曹操に寝返ったと考えて激怒。韓嵩を殺そうとし、またその従者を拷問にかけて殺しました。
ですが、拷問しても韓嵩が曹操に寝返った証拠がないので許しています。
陳寿はこれを劉表が表面の典雅な雰囲気と裏腹に内心は猜疑心の塊と酷評するのですが、それはそうでしょう。自身が長年統治した荊州の臣下が、劉表よりも献帝を擁した曹操に帰順せよというのです。
これで本当に曹操に帰順すれば、苦心して抑えて来た荊州がまた後漢に飲み込まれてしまいます。野心満々の劉表が心を乱され、てめえ曹操に丸め込まれたなぁと掴みかかるのは無理もありません。
劉表は帰順せずに曹操に敵対し、後は荊州を守る事のみに腐心します。
こうなると、とても領土拡大どころではありません。荊州一州でさえ、張羨が叛いて大変だったわけですから・・
袁紹や曹操が複数の州を制圧できた理由は?
三国志の群雄を注意深く見てみると、呂布にせよ袁術にせよ、劉璋や劉表にせよ、劉備にせよ大抵の領地は一州に過ぎません。
複数の州を抑えていたのは、袁紹、それに孫権や曹操位です。
この中で曹操は献帝を後ろ盾にしていたので、後漢の統治機構を丸々取り込む事が出来たと言えます。
袁紹は北方四州を治めましたが、その力の源泉は四世三公の血筋でした。士大夫の頂点に立つ毛並みの良さで、各地の豪族を糾合して複数の州を統治する事が出来たのです。
孫権は、孫家自体は家柄が低いのですが、揚州の大姓を臣下に引き込めたのが大きいと言えるでしょう。
州を越える後漢の権威か、豪族のネットワークこのいずれかを得ていないと、州を越えて領土を広げるのは反発ばかり招いて大変であり、そんな気苦労をするくらいなら一州を維持しようと多くの群雄は考えたのでしょう。
権限が強かった後漢の郡太守
孫堅が長沙太守の頃に、賊の区星が将軍を自称して城を包囲した事があります。
そこで、朝廷は孫堅を長沙太守にすると、孫堅は巧みな用兵で区星を撃破しました。
また、周朝と郭石が零陵と桂陽で蜂起して、区星と呼応したので孫堅は越境して周朝と郭石も撃破したので、三郡は粛然としたという記述があります。
しかし、この当時は反董卓連合軍が終結した時代と違い、例え、討ち漏らした賊でもエリアを越えてしまうと追えない決まりでした。
正史三国志の孫破虜討逆伝が引く呉録には、盧江太守の陸康の従子が宜春長で、賊に攻められて孫堅に救いを求めた事が書かれています。そこで孫堅が救援に向かおうとすると主簿がおそれながらと出てきて、「宜春は揚州で管轄外です」と諫めますが「俺は武官でいつも腕っぷしで手柄を立てたのだ、郡の境を越えて賊を討つぞ。それで罰せられたところで、何も天下に恥じる事はない」と出撃して賊を追い払っています。
元々、このように郡はエリアで権限が独立していて、山賊の類がエリアを越えるともう討伐できず隣の郡太守に引継ぎを依頼するしかありませんでした。孫堅の手柄は特例で、運が悪いと越権行為で処罰の対象にもなりかねない行為だったわけです。
三国志ライターkawausoの独り言
後漢の中央集権は、このように群雄を苦しめていました。州牧や州刺史の権力は限定的であり、州を越えてしまうとそこの郡太守を従わせるには後漢の権威か豪族のネットワークを駆使しないと不可能でした。
それがない群雄は、早々に領土拡大に見切りをつけて一州の支配に甘んじていたのであって無能だから領土が拡大できなかったわけではないのです。
参考文献:正史三国志 出身地で分かる三国志の法則
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