魏呉蜀で一番地味な存在である呉、その地味っぷりは曹操や劉備が絡まないとほとんど出番がないサブプレイヤー扱いをされる程です。しかし、地味である事と実力がない事は=ではありません。
そこで今回は、もし呉が天下を統一していたらどうなったかを考えます。
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西暦2××年、呉が天下を平定
西暦2××年、呉の大黒柱孫権と、周瑜や魯粛、呂蒙、陸遜、程普、張昭のような名だたる名将の力を総動員して、とうとう呉は魏の都洛陽を陥落させます。
どんな風に魏を倒したかって?そんな野暮な事は言いっこなしです。これは、呉が天下を統一したという前提から始まるifなんですから!
すでに、破竹の勢いで蜀を滅ぼして支配下においていた呉は、名実共に天下統一を果たす事に成功しました。ところが、孫権にとっての苦難は天下を統一してから始まるのです。
お前なんか認めない!蜂起する豪族達
しかし、孫権はウッカリしていました。すでに曹魏とは無関係に帝位を名乗っていた大皇帝孫権には後漢の後継者としての立場がイマイチ弱い状態だったのです。
なにしろ、孫権が皇帝に即位した理由には正当な理由などありません。魏には後漢の後継者という大義名分があり、蜀には魏の大義名分を認めず劉氏の王族の末裔である劉備が滅ぼされた漢を復興するというこちらも、もっともらしい大義名分がありました。
ところが、呉にはそんなものはありません。そんなモノがなくても長江を通して入ってくる物流を抑える事で、ヒトもモノも入って来たからです。
ですが西暦229年、すでに魏と蜀それぞれが王朝を興した事で孫権はコンプレックスを感じ、なんとなく天命が下ったとして皇帝に即位したわけです。それだけなら別に問題はなかったのですが、うっかり中国を統一してローカル英雄から抜け出てしまったから、さあ大変です。揚州と交州、広州、と荊州の南半分以外では、後漢の復興を求め、孫権を簒奪者と罵る地方豪族の声が蔓延したのです。
「何が皇帝だ!魏を滅ぼしたなら後漢の天子を再び立てるべきを自ら天子として中華に君臨しようとは!貴様も魏と同じ簒奪者だ」
天下統一の偉業を成し遂げて感謝されると思っていた孫権にはそれは予測できない猛反発でした。
ボンクラ孫権、第三次党錮の禁を引き起こす
孫権がもう少し若ければ、ここで豪族達の批判を受け入れ、どこからか献帝に近い血筋の人物を探し出して漢を復興して自身は後継者になり徐々にその権力を奪っていくという面倒で狡猾な方法も出来たでしょう。
ところが、すでに50歳を過ぎてボンクラ化が進んでいた孫権は、突然に降って湧いた「簒奪者!」の声にブチ切れてしまいます。おまけに孫権にはすでに成人した孫登という皇太子もいました。
「なんだ貴様ら、俺が苦労して魏を滅ぼした時はだんまりを決めこんだ癖に、今頃になって湧いてきやがって、生意気な事を抜かすな!」
酒の入っていた孫権は宮廷に怒鳴り込んできた儒教官僚を逮捕して牢獄に放り込んでしまいました、これは事態を悪化させます。当時の中央官僚は、一応、九品官人法で能力重視で選ばれる建前でしたが、実際にはそれ以前の郷挙里選と同じで地方豪族の息のかかった人々が変わらず中央に存在していたのです。
「すわ!党錮の禁の再来」と各州の豪族たちは怒り狂い、仕舞っていた武器を取り出し私兵団を率い各地で蜂起しました。
戦乱の中で有力家臣が叛いて呉は収拾不可能に
酔いが醒めた孫権は、やっと深刻な事態に気が付きますが手遅れでした。投獄した連中を釈放するからと譲歩しても、各州の豪族は「孫権が退位して後漢皇帝を即位させないと軍備を解かない」と意気軒高です。
陸遜は、「ここは豪族の意見を容れて退位されては?」と諫言しますがやっと皇帝に即位して、今さら退位なんてカッコ悪くて出来ません。
それに、この状態で退位すると、あっという間に権力を奪われて自分が庶民に落とされるのではないかと孫権は恐れました。そうでなくても、孫呉では豪族の力が強く孫権は皇帝権力を伸ばそうと非常に苦労していたのです。
「ふざけるな!いまさら退位なんかできるか!やい陸遜、貴様、地方豪族と裏では繋がっているんじゃあないだろうな朕を退位させて、自分だけ生き残ろうとしてるんだろうが」
「何を言うのです、陛下に仕えて40年のこの私を疑うのですか!ああ何と情けない、むきいいいいい!!」
孫権に痛くもない腹を探られ、陸遜はそのまま憤死しました。反対派の陸遜が死んだ事で、孫権は本格的に兵を出し各地の豪族を撃破します。ようやく長い戦乱が終ったと安堵していた民衆は、再び始まった内輪揉めに早々に孫権を見限ろうとしていました。
孫権、部下に叛かれて万事休止
豪族相手に、孫呉の軍勢は連戦連勝しますが、一つを潰せば、また一つと次々に蜂起するので全くキリがありません。ムキになって討伐する孫権に、さらに衝撃のニュースが飛び込みます。
呉の名族が漢の復興を大義名分として孫権に反旗を翻したのです。そこには、陸抗、朱異、顧譚、張承、それに諸葛瑾等が顔を揃えていました。
実は、孫呉は豪族連合政権であり、例えば兵力や領地も、親から子、子から孫へと世襲されていました。例えば、呉の朱桓が病気になって軍を率いれなくなると孫権は、朱桓の息子の朱異に部曲(私兵)を仮に与えています。
これは、呉の兵力が皇帝に属しているのではなく、それぞれの武将が世襲して率いる財産だという意味なのです。つまり孫権の力が強い間はともかく、落ち目になると、彼らが命令を聞くかどうかは保証の限りではありません。
一向に収まらない豪族の蜂起に、もはや孫権を担ぐ事を見切った呉の名族は各地の豪族に迎合すべく後漢復興を大義に掲げたのです。足元から火がついた孫権は、これ以上戦争を続ける意欲を失い洛陽に進軍してくる豪族連合軍の軍門に降りました。かくして、呉の天下は、たった数年という短期間で終わったのです。
if三国志ライターkawausoの独り言
いくらなんでも、大義名分がない位で呉が滅びるわけがないとこのifに否定的な人も多いでしょう。でも、決してそうではないのです、全ての豪族を圧倒できる軍事力がない限りこいつが天子に即位するのは仕方がないと抵抗を諦めさせる大義名分が必要です。
だからこそ、曹丕は茶番のようでも禅譲を真面目に実行し、諸葛亮は実質、劉備の天下であっても、漢の復興を大義に掲げ続けたのです。しかし、どう強弁しても孫権には、皇帝に即位する大義がありません。せめて、即位さえしていなければ、途中で漢室に連なる人物を旗頭にして堂々と洛陽に入場できたかも知れませんけどね。
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