太史慈・張昭・韓当は呉(222年~280年)の家臣です。呉に長年仕えており重要な戦や政治事件に関わっていました。
さて、彼らには息子がいました。ただし、その事績は思った以上に知られていません。
そこで今回は正史『三国志』を中心に太史慈・張昭・韓当の息子について解説します。
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太史慈の息子 太史享
太史享は太史慈の息子です。長子なのか実子なのかも不明です。陳寿の正史『三国志』によると越騎校尉にまでなったと記されています。要するに近衛兵の司令官です。
裴松之が注尺として採用している韋昭の『呉書』によると尚書や呉郡太守も歴任していたことが記されています。尚書というのは皇帝の上奏文に対して却下出来る役職であり、後の時代では非常に重要視されていました。
正史も『呉書』も太史享が上記の官職にいつ任命されたのか詳細に記していません。そのため、太史享がいつまで存命していたのかもさっぱり分かりません。太史慈の一族は太史享以降、歴史の闇に葬り去られたようです。
張昭の息子 張承
張昭は孫策・孫権に仕えた人物であり呉の重臣です。孫策は死ぬ間際に軍事は周瑜・政治は張昭に委ねてこの世を去っており、孫権も様々なことに関して彼の顔を伺いました。
実際の孫権と張昭の関係は水と油であり、孫権がちょっと羽目を外せば張昭に注意されて孫権がへそを曲げるというのが、いつものパターンです。
張承はそんな張昭の子です。彼は父親と違って孫権とケンカはしませんでした。ただし、人を見る目に優れていました。
諸葛瑾の息子の諸葛恪が幼い時から弁舌に優れて周囲の者を圧倒。孫権の皇太子である孫登の側近に取り立てられました。
諸葛恪については周囲の人々だけではなく、張承の弟の張休もべた褒めしており、一緒に孫登の側近になっていました。まるで諸葛恪はアイドルでした。だが、張承はそんな光景を冷ややかに見ていました。
「諸葛恪はいずれ自分の身を滅ぼすに違いない」と張承は言いました。
張承は赤烏7年(244年)に病死しますが、諸葛恪は建興2年(253年)に魏(220年~265年)との戦争失敗を責任をとらされて殺されました。なお、弟の張休はそれ以前に政敵の孫弘に自殺させられました。
韓当の息子 韓綜
韓当は孫堅・孫策・孫権の3代に渡って仕えた人物です。呉では幹部クラスの人物でした。韓綜は韓当の息子であり、韓当の死後に父親の位を継ぎました。
普通ならば親の築いた名誉を傷つけないようにするのが当たり前ですが、この息子は何を考えているのか喪に服しているフリをして、飲酒や淫らな行為にふけります。
しかもこれが、孫権の出陣中の話。孫権も分かっていましたが、親の韓当の長年の功績に免じて処罰はしません。一方、韓綜は孫権からどんな処罰を受けるのだろうかビクビクしています。悪いことをする奴ほど気は小さいものです。
そこで韓綜は一族と部下を引き連れて魏に投降しました。魏の将軍になった韓綜は呉の領地を荒らして民を苦しめました。やっていることは盗賊と一緒です。孫権は怒りがこみ上げましたが、すでに後の祭りであり、どうすることも出来ません・・・・・・
だが、悪人を野放しにするほど世の中は甘くありません。呉の建興元年(252年)、諸葛恪が魏に戦を仕掛けました。「東興の戦い」と言います。この時、先鋒となったのが韓綜でした。韓綜は諸葛恪と戦うも、敗れて首を斬られるという最期を遂げます。孫権はすでに亡くなっていたので、韓綜の首は孫権の廟まで送られたということです。
これぞまさに天罰!
三国志ライター 晃の独り言
以上が呉の将軍の息子たちの解説でした。呉には太史享や張承のように親の働きにも劣らない人物はいたのですが、韓綜みたいに親の行いを真似ずに、国に対して反抗までするのもいたのです。
韓当はきっと、あの世で孫堅・孫策・孫権に会わせる顔が無かったはずです。呉の将軍の息子は今回の記事を書く際に何人か調べました。
調べてみると様々な人物や事件と繋がっていたので面白かったです。また、書いてみたいです。
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