【意外】徐庶と劉備はご近所さん!三国志登場人物の住所の不思議


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kawausoとおとぼけ

 

三国志の二次創作は楽しいものですが、大体困るのは、○○は一体どこに住んでいたんだろう?という疑問です。史料で分かるのは大雑把な市町村までであって番地レベルになると、推測で埋めるしかないのが実情なのです。

 

はじめての三国志編集長kawauso

 

しかし、今回、kawausoは水経注(すいけいちゅう)の中から、襄陽(じょうよう)の地図を確認する事が出来ました。

 

司馬徽とホウ統

 

そして、地図には徐庶(じょしょ)司馬徽(しばき)龐統(ほうとう)というような三国志の登場人物の屋敷の場所についても記述されていたのです。今回は三国志の二次創作の参考になるに違いない?襄陽の登場人物の住所についてを解説します。

 

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水経注とは何?

幕末 魏呉蜀 書物

 

水経注とは、北魏(ほくぎ)時代の地理書で延昌4年、515年の成立で40巻からなります。つまり三国志の時代から300年程後の時代の書物でありリアルタイムではありません。しかし注という言葉が示す通り、水経注とは、元々あった水経という地理書に対する注釈本であり、こちらの水経は後漢の順帝(じゅんてい)の時代以降から、三国魏の時代の成立と考えられています。なので、引用されている地図は、まさに三国志の時代ど真ん中であると言えるのです。


大公開三国志の時代の襄陽の人々の住所

 

こちらが、水経注を参考に書き写した襄陽城を中心にした三国志の時代の地図です。襄陽城の北に沔水(べんすい)が流れ、その対岸には関羽が包囲した事でお馴染みの樊城(はんじょう)があります。同時に曹仁(そうじん)の碑という記載もあるので、恐らく関羽を撃退した事を記念したものでしょう。

曹仁

 

では、それぞれのキャラクターの住所について見てみましょう。

 

①司馬徽の屋敷・・・水鏡先生こと司馬徽の住居で、襄陽城の東、卞水の対岸にあります。

沔水の中には中州があり、ここに司馬徽が師事した龐徳公(ほうとくこう)の屋敷があります。史書では司馬徽は時々、着物をからげて龐徳公の屋敷に出入りしたらしいです。

司馬徽

 

③龐統の屋敷・・・襄陽城東門からそれほど離れていない土地に龐統の屋敷があります。城内に屋敷を持たなかったのが、荊州における豪族同士の力関係をあらわしていますね。多分、蔡瑁(さいぼう)のような劉表に近い豪族の屋敷は城内にあったんでしょうね。

龐統した勝利

 

④徐庶の屋敷・・・襄陽城の西側には、沔水を挟んで徐庶の屋敷があったようです。その隣には、徐庶の親友と言われる⑤崔州平の屋敷が並んで建っています。また、この近くは檀渓水と言い、河の流れの激しい部分があったようです。

魔のトリオ攻撃が劉備を追いつめる

 

劉備が襄陽城での宴で蔡瑁・蒯越(かいえつ)に殺害されかけた時に、(かわや)に行くフリをして城を抜け出し愛馬の的盧を励まして、激流を飛び越えたのはこの部分であり、(※世語)徐庶や崔州平の屋敷の側だったという事になります。

剣を持って戦う徐庶

 

もしかすると、この騒動を徐庶は近くで見聞していて劉備を担いで何かしようと企みをやりだしたのかも知れませんね。おあつらえ向きに当時劉備が駐屯していた樊城は、徐庶の屋敷からそれほど離れていないので、尋ねやすい場所でもあります。

楊儀

 

⑥楊儀の屋敷・・・魏延(ぎえん)と険悪であり、諸葛亮死後に一騒動を起こした楊儀は襄陽城の南、回(にサンズイ)湖の北側に住んでいて、湖の南には同族の楊顒(ようぎょう)が住んでいました。この楊顒は楊儀同様に事務処理能力に優れ、細かい仕事まで自分でやろうとする諸葛孔明に仕事を取らないでと説教しています。また、こちらも中州に⑦蔡習という人の屋敷がありますが、三国志で検索しても引っ掛かりませんでした。

亡くなる孫堅

 

峴山(けんざん)・・・峴山は、三国志の初期の英傑孫堅(そんけん)が劉表を攻めている途中に黄祖(こうそ)の罠に嵌り射殺されるという最期を遂げた場所です。⑪の景升台(けいしょうだい)は、調べてもよく分からない施設ですが、もしかして、劉表が天を祀ったりした場所なんでしょうか?

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの


アレ?諸葛孔明の住居は?

3000人の配下で孔明の庵を包囲する武闘派な劉備

 

「あれ?諸葛亮の住居は?」と思った方も多いでしょうが、諸葛亮が隠遁(いんとん)していた古隆中という土地は、馬鞍山(ばあんざん)よりもずーっと西にあります。こうして考えると、徐庶と司馬徽、龐統、龐徳公の屋敷の近さに比較すると、諸葛孔明はかなり辺鄙な土地に住んでいるという事が出来るでしょう。

 

だからこそ、隠遁という世捨て人的な高雅な演出も出来るわけですがlその微妙な土地感覚は荊州における諸葛亮の順風満帆とは言えない出世の道の険しさに繋がるのかも知れません。それがあったからこそ、将来性には難がある劉備に賭けるという大博打を打ったのでは?と考えてしまいます。

孔明

 

だって、襄陽城の近くにいた徐庶、崔州平、司馬徽、龐徳公、龐統の中で、いつの間にかふらっと劉備軍に入ったと見られるのは龐統だけで、あとは知らんぷりですしね・・ここには、襄陽城との距離の違いがよそ者(劉備)に対するスタンスの違いと連動しているような感じもします。

韓信vs孔明

 

そう言えば、正史三国志の先主伝では、曹操が荊州に攻めてきて大混乱している最中に諸葛亮が劉備に、このどさくさを利用して劉琮(りゅうそう)を打ち破り荊州を領有しなさいと進言しています。いくらなんでも数千の劉備軍に、そんな事が可能だったか分かりませんが、同じく先主伝には劉琮の左右が劉備に帰服したとあるので、うまくやれば内応を誘い城門を開いて劉備軍を城内に引き入れるとか可能だったのでしょうか?

 

襄陽の地図を見ると、色々考えてしまいますね。


三国志ライターkawausoの独り言

 

今回は水経注から三国志の時代の襄陽城周辺に住んでいた三国志のお馴染みの人々の住所について紹介してみました。これが本当に正しいかどうかは、kawausoの情報収集能力ではなんともなりませんが、登場人物の配置から、なんとなく諸葛亮と司馬徽の一派との力関係などが、見えてくるような気がしました。三国志の二次創作に励んでいる皆さん、kawausoの駄文はともかく、水経注の地図は参考になりましたでしょうか?

 

参考文献:正史三国志先主伝 後漢末期の襄陽の豪族

 

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