皇甫嵩は後漢(25年~220年)末期の人物であり、黄巾の乱討伐で功績を挙げた人物で有名です。正直なことを言うと、筆者も詳しいことはあまり知らないのです。実はこの人は『後漢書』と正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた史料にしか登場しません。
そこで今回はそれらをもとに皇甫嵩に関して解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています。
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スカウト、お断りします!
皇甫嵩の生年については分かりませんが、若い時から文武両道であり弓術・馬術・読書に励んでいました。役人になりましたが父の皇甫節が亡くなったので、すぐに辞職することになります。中国では親が亡くなったら3年間、喪に服す決まりがあったのです。さて、それからしばらくすると太尉の陳藩・大将軍の竇武からスカウトが来ました。竇武は外戚(=皇帝の親族)であり、陳藩は宦官反対の急先鋒です。
要するに「俺たちと一緒に宦官を倒そうぜ!」という誘いでした。当時の朝廷は儒学をモットーにして活動する清流系官僚と宦官や彼らを擁護する濁流系官僚が争っていました。陳藩と竇武は皇甫嵩を仲間に入れて宦官に対抗するつもりでした。しかし、彼らの狙いは宦官に代わって政権と取りたいだけ・・・・・・
皇甫嵩はそれが分かっていました。彼らの下心を見抜いていた皇甫嵩は「お断りします」と大人の対応をします。その後、陳藩と竇武は宦官との政治闘争に敗北。2人とも死んでしまい、多くの関係者が投獄・殺害されました。これを「(第二次)党錮の禁」と言います。
黄巾の乱で活躍
中平元年(184年)に太平道の教祖である張角が反乱を起こします。「黄巾の乱」です。皇甫嵩はこの時、党錮の禁で処分を受けた人々が黄巾軍の仲間になることを防ぐために彼らを自由の身にすることを提案。
「なるほど!」と思った霊帝は早速、恩赦を発表。黄巾軍の討伐に向かわせました。また、皇甫嵩も討伐軍の指揮官として豫洲潁川郡に出動。黄巾軍の波才と戦います。波才は圧倒的に強く、朱儁を破り、続いて皇甫嵩と対陣しました。そこで皇甫嵩は火攻めの計で黄巾軍を打ち破ります。張角の本隊は盧植と董卓が相手になっていますが、2人では全く勝てないで膠着状態が続いていました。そこで皇甫嵩が交代して張角軍と戦闘になります。
張角は偶然、病死したので本隊は皇甫嵩により大破。また、張角の弟の張梁と張宝も相次いで討たれたので、ここに黄巾の乱は終わりを迎えます。客観的に見たら、皇甫嵩は運よく他人の功績を自分のものにしたのです。運も実力の1つですね・・・・・・
赤っ恥の董卓
中平2年(185年)に皇甫嵩は辺章と韓遂の反乱討伐に当たりますが、宦官の趙忠を処罰しようとしたり、張譲に贈賄をしなかったので逆に処罰されました。まさに世は無常・・・・・・中平5年(188年)今度は韓遂がプロデュースしてきた王国という男が反乱を起こします。王国というのは名前です。インパクトのある名前なので、おそらく偽名と推測されます。
再び皇甫嵩は指揮官に抜擢されますが、この時、まだ地方官だった董卓が従軍していました。皇甫嵩と董卓は軍中で意見が対立してしまいます。皇甫嵩は意見では勝てないと言いました。もちろん董卓には自信があります。だが、結局董卓の意見は通らず皇甫嵩の意見で戦闘になりました。
董卓は心中で「負けて俺に謝罪しろ!」と思ったことでしょう。ところが、董卓の意に反して、あっさりと皇甫嵩は勝ちました。赤っ恥をかいたのは董卓でした。この一件から董卓は皇甫嵩に怨恨を抱きます。
董卓との和解
中平6年(189年)に董卓は外戚の家臣が宦官に殺された混乱に乗じて、政権を奪ってしまいます。正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『山陽公載記』という書物によると次のような話がありました。
ある日、車で移動していた董卓に皇甫嵩が拝礼しました。「義真、参ったのか?」と董卓は声をかけました。義真は皇甫嵩の字(あざな)です。
「なぜ殿がこれほど、立派になると思い及んだことでしょうか?」と皇甫嵩は返答します。
「大きな鳥に大きな志があるんだ。燕やスズメには分からないんだ」と董卓は言います。
「私も殿も昔は大きな鳥でしたが、殿が鳳凰に変身するとは予測しなかっただけです」と皇甫嵩はコメント。それを聞いた董卓は笑ったそうでした。
また、次のような話も残っています。張璠という人物が執筆した『漢紀』によると別の話が残っています。呼び出された皇甫嵩が董卓から「自分が怖くないか?」、と尋ねられます。
しかし皇甫嵩は、「何も怖くありません。もし刑罰を乱用して権力を振りかざしたら天下の人々は怯えます。これは私1人ではありません」と言い返しました。それを聞いた董卓は何も言い返せなくなり、逆に皇甫嵩と和解したのです。自分の痛いところを突かれたからでしょう。
後漢史ライター 晃の独り言 どっちが正しい
さて、先ほど紹介した董卓と皇甫嵩の話ですが、どちらの話が正しいでしょうか?前者は皇甫嵩が董卓に媚びている姿にしか見えず、後者は皇甫嵩が董卓に毅然とした態度で臨んでいます。筆者は耳にタコが出来るほど解説していますが、『山陽公載記』は裴松之が「史籍の罪人」と呼んでいる史料です。つまり、小説(=くだらない話)と考えてもおかしくありません。
まず、皇甫嵩の人格が明らかに別人。これまでどんな権力にも媚びなかった人が、董卓になったら、いきなりペコペコするなんておかしいものです。そのため、筆者は『漢紀』の内容が正しいと考えています。読者の皆様はどう思いますか?
※参考文献
・増淵龍夫「後漢党錮事件の史評について」(『一橋論叢』44-6 1960年)
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