中平元年(184年)に張角・張宝・張梁の3兄弟が後漢(25年~220年)に対して起こした「黄巾の乱」は、わずか半年で鎮圧されましたが、残党は各地に散っていき20年以上に渡り群雄や人々を苦しめました。
ところで黄巾軍が荒らして回った土地は、どんな所だったのでしょうか?
今回は黄巾軍が転戦した土地について解説します。
「黄巾の乱 場所」
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下曲陽 黄巾軍最終拠点
下曲陽は張角が本拠地とした場所であり、黄巾軍の最終拠点でもあります。最初は総司令官の盧植が張角と戦いますが、盧植の総司令官解任後は皇甫嵩が代行して黄巾軍を壊滅させます。
黄巾の乱終了直後は土地も荒廃しており、税収も全く期待できない状態でした。ちなみに、劉備が最初に官吏として赴いた安喜県から40キロ程度しか離れていません。
横山光輝氏のマンガで安喜県は、劉備が善政を行っているかのように描かれていますが、史実の劉備は官吏としてはハズレくじを引かされたので、心中複雑だったことでしょう。余談ですが劉備が監察の督郵が来たと聞いた時に、以前からの顔見知りだったので、異同辞令を持って来たと勘違いをしたそうです。しかし、会ってみれば全く違っていたので激怒して暴行に及びます。
劉備、短気すぎでしょう・・・・・・
青州 曹操親衛隊誕生の地
青州は現在の山東省であり、有名な青州黄巾軍が暴れた土地です。青州黄巾軍は董卓が亡くなった初平3年(192年)以降の話であり、誕生までは経緯が長いです。中平元年(184年)の黄巾の乱で本部壊滅後に散り散りになった黄巾軍でしたが、残党は各地で暴れて回ります。
初平3年(192年)に黄巾軍残党は黒山賊との連携を企み冀州に侵攻。だが、彼らは公孫瓚の歩騎2万の前に敗北。残存勢力は冀州攻撃を諦めて兗州攻略に挑みます。最初に任城相の鄭遂を殺害。続いて東平国に侵入。
兗州刺史の劉岱は迎え撃つことに決めました。この時、部下の鮑信は「敵は兵糧不足なので略奪でまかなっている。だから、ひたすら守りを固めて敵が疲弊するのを待てばよい」と諫言します。この鮑信の説得は普通の説得なのですが、何を思ったのか劉岱は黄巾軍に突入していき、あっさりと戦死。劉岱戦死の報告を受けた曹操は、陳宮から勢いに乗じて兗州刺史になることを説得されます。
もちろん鮑信も異論無し。不思議なのは劉岱の時は防戦を論じていたはずの鮑信でしたが、曹操が来ると主戦に変わっていることでした。
この点から鮑信は曹操を兗州に呼ぶために、わざと劉岱を黄巾軍と戦わせて死なせたという推測がされています。正式な任命ではありませんが、兗州の刺史になった曹操は黄巾軍と戦って見事に勝利。降伏した莫大な数の黄巾軍を親衛隊に加えました。
「青州兵」の誕生です。
残念ながら鮑信この戦いで討ち死に。しかし彼の副官として従軍していた于禁が曹操を支えていくことになります。曹操の覇業は青州から出発していきました・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言 男と女どっちだ?
『キングダム』読んでいると混乱することがある晃です。それは見た目から男か女か分からないキャラクターが登場することです。例えば楚軍の白麗。最初登場した時はマジで女と勘違いしていました。2、3冊読んでいたら「これは男だったんだ・・・・・・」と分かりました。
次に弓矢兄弟の兄貴。河了貂みたいな顔をしているから、「絶対に女だ!」と確信していたのだが、しばらく読んでいたら何か違和感を感じた・・・・・・やっぱり男でした。『キングダム』には、上記のように性別の見分けがつかないキャラクターが登場するので混乱します。
読者の皆様は気付きましたか?
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