さて今回は勝手に命名した蜀滅亡シリーズ、内容はタイトル通りです。諸葛亮の息子である諸葛瞻の評価に付いては、良く厳しい言葉を耳にします。これは最後の失策と、何よりも、よりにもよって、よりにもよって!
黄皓派であったことが要因していると思われますが、その評価は果たして正しいのか?
そこで諸葛瞻の評価をもう一度見直してみたいというのが今回のメインテーマです。
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諸葛瞻という人物
ざっくりいってしまうと諸葛亮の息子です。諸葛瞻は父親の死後、武郷侯の爵位を継ぎました。17歳で劉禅の娘を娶り、様々な官職を歴任していきます。書画が巧みで記憶力が良いその姿を人々は父・諸葛亮と重ねて、何か良いことがある度に「諸葛様のおかげ」と褒めそやされていました。
黄皓のかげ
さてそんな諸葛瞻ですが、黄皓派だったと言われています。この時の蜀は内部では黄晧が専横しており、北伐を繰り返す姜維とは対立していると言ってもいい関係にありました。
そして諸葛瞻も黄晧側に付いて姜維を降ろすべきと考えていたと言われているのです。この事から「そもそも姜維は諸葛亮が連れてきたんだろ、味方してやれよ」と非難されることが多いですね。
諸葛瞻、失態す
時代は流れて263年。鄧艾たちが蜀へと攻め込んできます。この時に劉禅は成都まで攻め上がる勢いの鄧艾軍に当たるようにと劉禅からの勅命を受けました。
こうして諸葛瞻は出陣することになります。この際に黄権の子である黄崇は「積極的に要害を塞ぎ鄧艾を侵入させないように」と進言するのですが……諸葛瞻はこれに従いませんでした。
失態重なっていく
この辺りを嚙み砕いて説明しましょう。黄崇は魏軍が来る前に要害を抑えるべき、と言いました。しかし諸葛瞻はその提案を蹴っただけでなくモタモタしてしまったので、要塞を奪われ、守備兵は鄧艾に投降。難解な道を通って疲弊していた鄧艾軍はここで拠点、兵力を立て直してしまったのです。
もはやこの時点で敵に勝てる道はなくなってしまったと言えるでしょう。最期に投降を進められた諸葛瞻は使者を切り捨て返礼とし、初戦では鄧艾を破るも反撃されて最後は戦死しました。この後、鄧艾は成都まで攻め上がります。
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