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この記事の目次
郭嘉の死を悼む書を何故か荀彧に送る曹操
曹操は、白狼山の戦いに勝利した後に、天下は平定されたとは言わないが一区切りついたとして、二十人あまりの功臣の地位を列侯に引き上げています。それだけ、今回の戦いが記念碑的な価値があると考えたわけで、それを推進した郭嘉への信頼は強まったと言えますが肝心の郭嘉は無理が祟り、戦後に病死してしまいました。ここで、曹操は亡くなった郭嘉を惜しむ書簡を送るのですが、送り主が荀彧や荀攸になっているのが面白い所です。
郭嘉の年は40に満たず、仕官から11年、一緒に山あり谷あり苦しみと喜びを共有した。また高い判断力と洞察力が鍛えられていたから、私が死んだら後事を託そうと思ったに、まさか突然に帰らぬ人となると誰が予測できようか?
私は胸を痛めるばかりだ。
今、上表しその子に加増して千戸に満たしたが、死んだ郭嘉に何の意味があろう?嗚呼、二人のメモリーは甦り
感慨は深まる一方だ。それに奉孝は私を知る者で、天下の人で心が通じ合う人は少なく、何度も寂しさが襲ってくる。
何とした事か!×2
三国志郭嘉伝を補う傅子にはこうあるのですが、なんかこれ、荀彧と荀攸に当てつけてませんか?そうでなくても、過去に我が子房と呼ばれた荀彧からすれば、曹操の寵愛が完全に郭嘉に移っていると思わずにはいられない内容だと思います。
三国志ライターkawausoの独り言
郭嘉と言えば、品行が悪くて陳羣に弾劾されたものの、曹操が取りなした話があるように、曹操から見ると漢の忠臣という立て前を置かずに本音で会話できる数少ない相手だったのでしょう。
もちろん、荀彧や陳羣のような暑苦しい建前に生きる部下も必要ですし重要ですが曹操としては、「ぶっちゃけ漢なんて受け皿が整備されたら滅んでもいいよね?」と打ち明け話が出来る私的な家臣として郭嘉を愛したように思えます。
そのやり場のない恨み節が屈折した形で、よいこちゃん官僚の荀彧や荀攸に飛んだとしたら、郭嘉を哀惜する曹操の心情にも、より深い意味が感じ取れますね。
参考文献:正史三国志
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郭嘉(かくか)・年表
所属:魏(ぎ)
姓名:郭嘉(かく か)
字:奉孝(ほうこう)
出身地:豫州潁川郡陽翟県(えいせんぐんようたくけん)
生没年:170年 - 207年
関連年表:
197年:曹操の配下となり、軍師祭酒に任じられる
198年:下邳に籠城する呂布に対し、水攻め提案し討伐に成功する
200年:袁紹と曹操による官渡の戦いに従軍
201年:敗走する袁紹軍の追撃を進言。勝利に導く
207年:死去(病死)
参考書籍:三国志完全ビジュアルガイド