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この記事の目次
- 1ページ目
- 前田利家の身長が182cmだった!
- 前田利家は男前だった
- 前田利家はかぶき者だった
- 前田利家は男色だった?
- 正室「まつ」との間に11人の子供をもうけ、側室もいた利家
- 2ページ目
- 前田利家は槍の名手だった
- 前田利家は信長から「犬」と呼ばれていた?
- 顔に矢を受けながらも、刺さったまま敵陣に突撃し、射た敵を討ち取る
- 利家は怪我が元で隻眼(片目)になった?
- 赤母衣衆の筆頭に大抜擢される前田利家
- 3ページ目
- 信長お抱えの芸人とトラブルになり、殺してしまった。
- 前田利家はケチだった?
- 桶狭間の戦いなどに無断で参加して、手柄を上げて許してもらう
- 出世競争では秀吉に遅れをとるが
- 一向一揆の鎮圧では苛烈な一面も
- 4ページ目
- 天正9年(1581年)能登一国を与えられ23万石の大名となる前田利家
- 近畿地方から遠い利家には不利だった
- 賤ヶ岳の戦いで戦線を放棄する?
- 敗走する勝家との涙の対面
- 秀吉の家臣として出世した前田利家
- 5ページ目
- 家康がお見舞いにきたときには、刀を布団の中に隠していた
- まつはこの後の前田家の危機を救う
- 戦国ライターしばがきの独り言
前田利家は槍の名手だった
利家のフルネームは「前田又左衞門利家」といいます。槍が得意な利家は、初陣でその槍によって武功を挙げます。そこから「槍の又左衞門」、「槍の又左」というあだ名がついたそうです。さらに後には「比類なき槍」、「日本無双の槍」などとも称えられます。その槍の長さは約6m30cm!
通常のおおよそ2倍ほどだったと伝わっています。残念ながら実物は残っておりませんが、記録は多いです。体が大きく、力が強かったため、扱えたということでしょう。これほどの長さは、他にあまり例がありません。
長槍で有名な、徳川家康の家臣・本多忠勝の「蜻蛉切」でも6m程度ですが、これも異例の長さだったといわれています。そして、派手好きの利家は、これを真っ赤(朱色)に塗っていたそうです。敵からしたらめっちゃ怖いでしょうね。でっかいでっかい奴が、長い長い赤色の槍を振り回して向かってくるのですから。
前田利家は信長から「犬」と呼ばれていた?
利家の幼名は「犬千代」で、信長の小姓(付き人みたいなもの)になったときには、元服前なのでその名前です。それで、「犬」というあだ名で呼ばれていたといわれています。
秀吉の「猿」との対比でよく使われますね。ちなみに、先ほど出てきた初陣も元服前(15才頃)です。今で言う中学生ぐらい?ですが、体格はすでに大人以上だったかもしれません。初陣で武功を立てるということも異例のことです。さらに、利家の武勇エピソードは続きます。
顔に矢を受けながらも、刺さったまま敵陣に突撃し、射た敵を討ち取る
元服直後に参加した次の戦の中、利家は右目の下あたりに矢を受けます。重傷なのですが、興奮していたためか、痛みを感じなかったのかもしれません。めちゃめちゃに腹を立てた利家は、矢が刺さったまま、周りの静止を振りほどき敵陣に突撃します。そして、自分を射たものを探し出し、見事討ち取ってみせました。信長はその武勇に感嘆して
「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ!」
と引き合いに出し、自軍を奮い立たせたといわれています。
利家は怪我が元で隻眼(片目)になった?
先ほどの怪我が元で片目になったという説がありますが、どうも後世の作り話のようです。そういった記録もなく、肖像画も通常の目に描かれています。ただ、顔に傷が残ったことは間違いないでしょう。
赤母衣衆の筆頭に大抜擢される前田利家
まもなく、信長は直属の親衛隊という位置づけの、『赤と黒の母衣衆』という部隊を新設します。利家は、その赤母衣衆の筆頭に抜擢されました。部下もできましたし、給料も増えました。ちなみに黒の筆頭は佐々成政です。この2人、後に袂を分かち、大名として対決することになるのですが、それはまだまだ先のお話です。
【次のページに続きます】