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この記事の目次
- 1ページ目
- 前田利家の身長が182cmだった!
- 前田利家は男前だった
- 前田利家はかぶき者だった
- 前田利家は男色だった?
- 正室「まつ」との間に11人の子供をもうけ、側室もいた利家
- 2ページ目
- 前田利家は槍の名手だった
- 前田利家は信長から「犬」と呼ばれていた?
- 顔に矢を受けながらも、刺さったまま敵陣に突撃し、射た敵を討ち取る
- 利家は怪我が元で隻眼(片目)になった?
- 赤母衣衆の筆頭に大抜擢される前田利家
- 3ページ目
- 信長お抱えの芸人とトラブルになり、殺してしまった。
- 前田利家はケチだった?
- 桶狭間の戦いなどに無断で参加して、手柄を上げて許してもらう
- 出世競争では秀吉に遅れをとるが
- 一向一揆の鎮圧では苛烈な一面も
- 4ページ目
- 天正9年(1581年)能登一国を与えられ23万石の大名となる前田利家
- 近畿地方から遠い利家には不利だった
- 賤ヶ岳の戦いで戦線を放棄する?
- 敗走する勝家との涙の対面
- 秀吉の家臣として出世した前田利家
- 5ページ目
- 家康がお見舞いにきたときには、刀を布団の中に隠していた
- まつはこの後の前田家の危機を救う
- 戦国ライターしばがきの独り言
信長お抱えの芸人とトラブルになり、殺してしまった。
出世もして、まつとの間に子供が産まれ、順風満帆に思われた利家は、大きなしくじりをおかします。驕りもあったのでしょうか。拾阿弥という信長のお抱えで、お気に入りの芸人がいました。拾阿弥は信長から気に入られているということを背景にしてか、周りへの態度が横柄であったといわれています。拾阿弥は、あるとき、利家が愛用してた笄(こうがい)という、髪の毛をセットする道具をイタズラで盗みます。
野蛮な武士にそんなもオシャレなものいらないでしょ、とバカにするような意味をあったのかもしれません。その笄は、妻まつの父(利家の義父)の形見であったそうです。そしてある日、犯人を知って腹を立てている利家に、侮辱するような言葉をかけたといわれています。利家ブチギレ。その場で切り殺してしまいました。
そこに、信長も居合わせたそうです。信長もブチギレ。喧嘩両成敗じゃ!拾阿弥が死んだのだから、お主も腹を切れ!となりましたが、柴田勝家ら、事情を知っている人たちがなだめてくれました。でも、クビ。お前、明日から来なくていいから。給料も出さないから。ということで、利家は家族もいるのにいきなり無職になってしまったのでした。
前田利家はケチだった?
ここで、1つ利家に欠かせないエピソードがあります。利家がまつに「ケチ」だと言われたという資料があるのです(川角太閤記)。さらに、平時には兵を雇う数を少なくしていたという記述があるので、信憑性もあります。
また、この時代には珍しいソロバンを使いこなして、経費削減に勤しんでいたと言われており、豪快なイメージとやや異なりますよね。
意外にしっかり者だったということなのでしょうか。こういった金銭面に対して細かくなったのは、この時期の浪人生活が関係しているといわれています。なんせ無職ですものね。まつにもお金のことでいろいろ言われたことでしょう。利家とまつは力を合わせてこの苦難の時期を乗り越えたと伝わっています。
桶狭間の戦いなどに無断で参加して、手柄を上げて許してもらう
利家は、2年ほど知り合いの家に居候させてもらっていました。その間信長は、相変わらず相変わらず戦ばかりで大変そうです。そんなとき、今川の大軍勢が攻めてきたという話を耳にします。本当なら信長大ピンチです。
いわゆる桶狭間の戦いのときです。ぐずぐずしている利家のお尻を、まつがひっぱたきます。
「あんたは戦でしか役に立たれへん男やろが!今やらんでいつやんねん!」
というようなことでも言われたのでしょう。利家は戦支度をし、こっそり前線の軍に紛れ込みます。そして、敵陣に切り込んで首級を挙げます。取って返し、信長の本陣に向かいます。その首をぶら下げて、信長の前に参上しました。
「殿!今川軍恐れるるに足らず!この戦勝てますぞ!」
下手をすれば切腹になるかもしれない決死のアピールです。ドキドキです。信長はそのとき、まさに桶狭間に向けて出陣するかどうか迷っているところでした。信長は笑います。そして、立ち上がり叫びました。
「出陣じゃ!」
気合を入れて出て行く仲間たちに押され、利家も一緒に行くことになります。そして、桶狭間でさらに首を2つ挙げたと伝わっています。これで許されたかな?と思いましたが、実は浪人生活はまだ続きました。
しかし、このやり方は信長好みであるということを感じだ利家は、次の年の戦にも無断参戦します。殿に許してもらうには、武功を立てるしかないんじゃ!利家は、必死で戦場を駆け回り、足立六兵衛という怪力で知られた豪傑を討ち取ります。他にも首級を1つ挙げ、2つの首を持って行き、やっと帰参が許されたといわれています。そんな利家を仲間たちは喜んで迎えたことでしょう。
出世競争では秀吉に遅れをとるが
浪人となっていたことも関係してか、少し後輩の秀吉に出世競争で遅れをとります。が、この2人正反対のように見えますが、妙に馬が合ったようで、家族ぐるみの付き合いをしています。また、同い年だった(そうでなくとも同世代)ということや、妻同士も仲がよかったことも関係しているでしょう。
後に、子供のいなかった秀吉に四女の豪姫をあずけ、養子縁組していますので、まさに家族同然となります。秀吉は城持ち大名となり、各方面へ忙しく飛び回ります。そのころ、利家は柴田勝家の部下に配属され北陸へ向かうことになります。
織田家の最古参の武将柴田勝家は、今で言う体育会系の豪将です。利家も、近しいものを感じていたのか、「柴田の親父殿」と呼び敬愛したそうです。この間に、大将とはどういうものか大いに学んだといわれています。
一向一揆の鎮圧では苛烈な一面も
近畿地方に集中したい織田軍の、背後となる北陸地方の安定は、信長はかなり重要視していました。利家はそれを理解して奔走します。何度も何度も反旗を翻してきた一向宗に、2度とそういう気にさせないようにするよう取り組んだことでしょう。
捕らえた一向宗の千人を釜茹でにした。という記録が残っているように、苛烈なことを行うことで歯向かう気持ちを失わせていくようにしていたと考えられています。この働きが信長に評価され、利家は遂に城持ち大名となります!
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