正史とも言われる三国志、それをまとめたのは陳寿です。しかし正史にはいくつかの注釈が加えられており、この注釈をつけたのが裴松之ですね。そしてこの裴松之、やたらめったら賈ク嫌いが目立つ人でもあります。
その理由として良く「賈クが主を頻繁に変えたから」というものがありますが、実際に賈クが嫌いな理由は董卓にあり?
ということを踏まえつつ、今回は裴松之やその周辺のお話をしましょう。
裴松之の注釈
繰り返しますが、裴松之とは三国志に注釈を付けた人物です。ただしこれはただの注釈ではありません。足りない部分を補う、異説を乗せる、自分の意見も(かなり)賈ク……じゃない、書く、といったように付けていくので、裴松之自身も言っていますが信ぴょう性がなかったり、記述に齟齬が出たりもしています。
なので正しく修正するという意味での注釈は薄く、むしろ注釈を付けたことで色んな異説が膨らみ、後世で討論されることもあります。ただしこの注釈こそが三国志を面白くしたのは事実だと思うのです。
注釈と主観
陳寿が書き記した三国志は歴史書であり、できるだけ簡潔に、簡素にまとめられているという印象を受けます。そしてそこに陳寿の感情はそこまで込められていないようにも思えます。
対して裴松之の注釈を悪く言えば主観が強く、私はこう思う!がとても感じられるのです。だからこそ三国志は後世で面白い読み物として受け入れられ、三国志演義が生まれたのだと思います。またもちろん陳寿に対して非難する気持ちではなく、裴松之からの敬意も感じることができるのです。
一方で・・・
ただし、裴松之の注釈でめちゃくちゃ主観を感じることがある文章があります。それこそが賈クであり、それはもう……非難しまくっています。
特に「せっかく董卓が死んだのにこいつのせいで乱世に戻った!」「こいつを荀彧や荀攸と並べないで!」「郭嘉と程昱と一緒にしろ!」というのは有名ですね。
儒教思想の強い当時、次々に主を変えたことから儒教に反する行為であると賈クは思われ、嫌われている面も一部あったのでしょう。ただ、ここにはもう一つ、董卓暗殺の件の後の恨みも含まれているとも言われています。
裴松之の思いは?
董卓が暗殺された後、賈クは李傕に献策して董卓を殺した王允の政権を打倒しました。裴松之はこれで乱世が更に続くことになってしまったと非難しているんですね。
悪漢董卓が排除されて安心したのに、その後の乱世が生まれた、三国志が生まれてしまったのは賈クによる献策からだ、ということでしょうか。しかしここで少し疑問点が生まれます。
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