世界史で「八王の乱」というのを習います。西晋(265年~316年)の内乱であり、この事件により西晋は衰えていくのです。
さて、授業では流す程度で終わる話なのですが、ここに登場する八王とはどんな人たちでしょうか?
今回は司馬炎の親族である八王と内乱の顛末を少しだけ話します。
汝南王 司馬亮の失脚
汝南王の司馬亮は司馬師・司馬昭の異母弟です。永熙元年(290年)に司馬炎は病気が重くなりました。
重臣の多くが亡くなっていたので、司馬炎は国政を司馬亮に任せることにしました。しかし、この情報を楊駿という人物が手に入れます。彼は楊彪・楊脩の子孫であり、娘が司馬炎の皇后でした。
このままでは自分の地位が危ないと感じた楊駿は娘と作戦を練りました。ある日、司馬炎は重篤になります。その時、皇后である楊氏が「今後の国政は楊駿でお願いします」と頼みました。わけが分からない司馬炎は「うん」と言ってしまいます。結局、その内容が詔勅となってしまい、楊駿が国政を担当することになりました。身の危険を感じた司馬亮は首都の洛陽から逃走しました。
楚王 司馬瑋 楊駿を討つ
楊駿は政治をやりたい放題。これを怨んだのは賈充の娘である賈南風です。彼女は西晋第2代皇帝恵帝の皇后です。
「政治は私がやりたい放題するはずだったのに!」と彼女は思っていました。スゴイ不純な動機です・・・・・・
そこで洛陽から出た司馬亮と一緒に挙兵を呼びかけますが、司馬亮は全く動きません。仕方ないので賈南風が声をかけたのは楚王の司馬瑋です。彼は21歳の若手。やる気満々で協力してくれました。元康元年(291年)に挙兵した司馬瑋と賈南風は楊駿とその一派を打倒に成功。その後、全く働いてもないですが司馬亮を都に戻してあげて宰相にしてあげました。一応、年長者なので立てたのです。
司馬亮・司馬瑋の最期
悪人も倒してめでたし、めでたし・・・・・・にならないのが世の中。そんなのは小説の世界だけ。政権を握った司馬亮は仲間の衛瓘と一緒に政治を壟断。
おそらく敵がいないと思って、気が抜けたのでしょう。それどころか楊駿討伐の功績者である司馬瑋の兵権まで奪おうとしました。怒った司馬瑋は2人が恵帝の廃位を計画しているデタラメな話を密告。賈南風も以前、衛瓘が酒に酔った勢いで夫を馬鹿にしたことを覚えていたので、それをネタに殺すことにします。
こうして司馬亮と衛瓘は司馬瑋の手により暗殺。だが、まだ話は終わりません。暗殺の首謀者である司馬瑋も2人を殺した罪により処刑されました。これは賈南風による口封じでした。
洛陽少年拉致事件
当時の洛陽では怪事件が起きていました。道端で少年たちが次々と拉致されて、死体となって発見されていたのです。まるで「奇跡体験アンビリバボー」のようなネタですが、本当の話のようです。ある日、真相が判明します。1人の小役人が洛陽を歩いていましたが、貴族の格好をしているのに顔は薄汚れている。
どう考えてもおかしいと思った上司はドロボウを行ったと思い、役所まで小役人を連れていきます。ところが小役人の口から驚愕の真相が語られます。
小役人は歩いていたら1人の老女から「家に病人がおり、あなたが来れば病魔を抑えさせることが出来る。お礼をするから力を貸して欲しい」と頼まれたのでついていった。そこは豪勢な屋敷であり小役人は主人と思われる女性と3~4日は寝床を共にしており、食事・衣服もいっぱいもらって帰らされた。
小役人によると女性は推定年齢35、6歳。背が低く、青黒い色をしており、眉に傷があったとのこと。その女性は賈南風でした。小役人は彼女から気にいられたので、偶然助かっただけだったのです。話を近くで聞いていた賈南風の親族たちは羞恥する者もいれば、苦笑する者もいたようです。
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