馬超は涼州の出身で騎兵を操るのを得意とした騎馬属性を持つ人です。
それもそのはず、馬超の父の馬騰は漢族と異民族の混血であり、異民族の言語と習慣に詳しく、精強無比な羌族や胡族の騎兵を率いる事が出来ました。馬超も、そんな父の後を継いで関中軍閥の有力者に収まりますが、曹操の支配下に入る事を良しとしなかった為に、波乱万丈の人生を送る事になります。
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西暦176年扶風郡茂陵県に誕生
馬超は熹平5年(西暦176年)に扶風郡茂陵県に誕生しました。父の馬騰は、三国志演義の漢の忠臣イメージとは大違いで、黄巾の乱に便乗して辺章という賊をボスに担いで韓遂と共に長安周辺で暴れ回り、朝廷が派遣した皇甫嵩将軍に撃破されたりしています。
一度は鳴りを潜めていた馬騰ですが、董卓が洛陽を焼いて長安に遷都すると出仕するようになり、そのまま李傕・郭汜に時代にも仕えていましたが待遇に不満を持って謀反を画策。
謀反は事前に漏れてしまい失敗、馬騰は郷里に逃げ帰りますが、その影響力を考えた李傕は、馬騰を追討せずに爵位を与え続け将軍のままにしておくなど不思議な人でした。
さて、そんなアウトローと漢の役人の間を生涯往来した馬騰の嫡男が馬超ですが、その初陣は意外な事から発生します。それまで、お互いに義兄弟の契りを結ぶ程に仲が良かった馬騰と韓遂が急激に不仲になり、韓遂は馬騰の妻子を殺害、両者が全面対決となったのです。
閻行に殺されかける馬超のデビュー戦
馬超は馬氏の嫡男として鳴り物入りで初陣を飾りますが、挑んだ相手が悪すぎました。
それは韓遂の右腕を務める閻行という男であり、突進してきた馬超を槍で突き落とします。衝撃で槍は折れてしまいますが、閻行は少しも慌てず、馬超の頸動脈を折れた槍で締め上げて、一方的にボコり殺害寸前まで追い詰めました。しかし、御曹司の馬超をむざむざ殺させるものかと、すぐに救援が差し向けられたようで、馬超は殺されずに済んでいます。馬超のほろ苦いデビュー戦です。
足を負傷しながら平陽の戦いで勝利
その後も馬騰と韓遂は果てしない騒乱を繰り返しますが、その頃、献帝を奉戴した曹操は部下の鍾繇を派遣して説得にかかります。
鍾繇は2人に「争いは不毛なので、そろそろ止めて献帝を擁している曹操の軍門に降った方が良い生活が出来るぞ」と助言。これを受けて、馬騰と韓遂は和睦し、子供を人質に出して曹操に従う事になります。
しかし、西暦202年、袁尚が曹操を東と西で挟撃しようと高幹と郭援を河東に派遣して、馬騰と韓遂に曹操に叛くように説得すると、やはり2人は反曹操に舵を切ってしまいます。
ところが、これを察知した曹操は、馬騰と韓遂をさらに寝返らせようと傅幹を派遣します。傅幹は、「曹操は大ピンチなので、お2人がさらに袁尚を寝返ってもらえると大変感謝して重く用いると申しております」と馬騰と韓遂を説得。2人は裏切りをチャラにされてもらえた上、さらに重く使ってもらえるなら曹操についた方が得と、さらに寝返ったのです。
かくして馬騰は曹操への援軍として馬超に部下の龐徳をつけて1万の兵を率いさせ鍾繇の指揮下に入ります。馬超は平陽で、袁尚軍の郭援・高幹軍と激突、郭援が汾水を躊躇なく渡河した隙を逃さずに関中連合軍を率いて突撃して撃破しました。
敵の総大将、郭援は部下の龐徳が斬るという大戦果を挙げますが、馬超は足に矢を受けて負傷。しかし、ここで引き下がれないと足を袋で包んで頑張って指揮したそうです。一見すると天才肌の馬超ですが、不屈の闘志を持つ頑張り屋さんでもあるんですね。
父と一族が鄴に移動し関中のボスとなる
馬超の運命が大きく変わったのは、西暦208年、馬騰と韓遂が再び仲違いを開始した時でした。曹操は犬猿の仲の二人を引き離すと同時に、安定しない関中から有力者を排除する名目で、馬騰とその一族200名余りを根拠地の鄴へ移動させ、馬超を偏将軍・都亭侯に封じ、馬騰の軍勢を引き継がせたのです。こうして、名実ともに関中のボスになった馬超ですが、その事が馬超の運命を大きく狂わせていくのでした。
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