魏(220年~265年)の三公の1つである司空(現在の建設大臣)に就任した人物に陳羣という人物がいます。
私はかつて、陳羣について執筆したことがありますが、その内容は曹操に仕えるまでの話でした。そこで今回は陳羣が曹操に仕えてからの陳羣について解説していこうと思います。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています
前回記事:若い時の陳羣は何をしていたの?劉備・呂布に仕えていた若き頃の陳羣
人を見抜く才能
建安3年(198年)に呂布を討ち取った曹操は陳羣を部下に迎え入れました。陳羣は潁川郡の出身であり荀彧・荀攸・鍾繇・郭嘉と同郷でした。
また、祖父・父・叔父は政界でも著名人。つまり、陳羣の家は生粋の政治家一族です。スカウト好きの曹操にとっては喉から手が欲しい人材でした。ある日、曹操のもとに王模と周逵という2名を推薦する人が現れます。
以前から有名な人だったので曹操は2人を部下にすることにします。しかし陳羣は「王模と周逵は社会的常識に欠けた人間です。最後は必ず失敗します」と曹操の命令書を返却します。
だが、曹操は認めずに2人を採用しました。間もなく王模と周逵は罪を犯して2人とも死罪。曹操は自分が人を見る才能が無かったと、陳羣に謝罪します。一方、人々は陳羣の人を見抜く才能に感心したそうです。
曹操の法律違反!?
曹操は陳羣に肉刑を復活するべきか尋ねました。肉刑とは「四肢切断」・「鼻削ぎ」・「刺青」・「むち打ち」・「杖刑」など身体的に苦痛を加える刑罰です。死刑よりも、この肉刑で死ぬ人の方が多かったようでした・・・・・・
ちなみに前漢(前202年~後8年)の時点で肉刑は廃止されています。ここで読者の皆様に思い出して欲しいのが曹操が若い時に行った宦官の騫碩の叔父が夜間外出禁止の法律を破ったことで「杖刑」にしたことでした。
当時の曹操は下っ端役人であるにも関わらず、廃止されていた法律を勝手に行ったのです。夜間外出を破った騫碩の叔父も良くないのですが、勝手に肉刑を行った曹操はもっと悪いのです。
正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『曹満伝』という史料によると曹操はこの事件で「近臣・寵臣から憎まれた」と記されています。その理由は騫碩の叔父を殺したというよりも、勝手に肉刑を使用したからと私は推測しています。
肉刑議論
話が陳羣から逸れたので戻ります。肉刑復活を陳羣に尋ねた曹操でしたが、彼は思った以上に乗り気ではありません。陳羣は肉刑で死者が多数続出していることから、名称を変えただけで死刑と肉刑に差が無いと言いたいのです。これは陳羣と同郷の鍾繇も賛成して2人とも肉刑復活に反対します。
ところが、王朗が「まだ肉刑復活をする時期ではない」と中途半端な意見を出したことから、この議論は頓挫となります。
太子四友となる
やがて皇太子時代の曹丕と親しくなった陳羣は司馬懿・呉質・朱鑠の3人と一緒に曹丕の教育係となりました。
陳羣・司馬懿・呉質・朱鑠の4人を人々は「太子四友」と呼びます。彼らの中で詳細な経歴が残っているのは陳羣と司馬懿だけであり、呉質と朱鑠は正史『三国志』に注を付けた裴松之が持って来た史料に断片的に残っているだけです。
そのため太子四友がどの程度の権力を持っていたのか、はっきりと分かっていません。太子四友という言葉が唐(618年~907年)に編纂された『晋書』に登場することから、おそらく後世の人々の造語と思われます。
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