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好き嫌いで判断せず
陳羣は朝廷では好き嫌いで物事を判断せずに、名誉と道義を重んじており、またそれを他人に押し付けることもしません。
皇太子時代の曹丕も陳羣を顔回に例えていました。顔回は孔子の弟子の1人であり、1番優秀と言われた人物でした。中国では他人を顔回と例える時は、その人に対して最も敬意を表する時です。
つまり、曹丕は部下の中で陳羣に対して最も敬意を表していたのでした。
お礼は断る
建安24年(219年)に曹操配下の魏諷が反乱を起こしました。魏諷は鍾繇が推薦してきた人物であり才能もあったことから、政界では非常に人望があったのです。
ただし、劉曄のように「魏諷は必ず反乱を起こす」と危険視する人物もいました。魏諷の反乱はすぐに鎮圧されましたが、反乱に加わった罪で魏の著名な政治家の息子たちが処刑されました。
さて、処刑リストに劉廙という人物がいました。劉廙は魏諷の人物を見破っていたのですが、弟がだまされて反乱に加担。その結果、劉廙は逮捕されて死罪の判決が下りたのです。この時、陳羣は劉廙を許してもらうことを曹操に直談判!曹操も劉廙の官僚としての実力を知っていたので許すことに決めます。
釈放後、劉廙は陳羣は「助けてくれてありがとう!」とお礼を述べました。しかし陳羣は「刑罰について論じたのは国家のためであり、あなたのためではありません。それに曹操様のご意向によるもので、私がどうして関知するのですか」とお礼は断りました。
鮑勛疑獄事件
曹丕から信頼を得た陳羣でしたが、確執が起きた形跡があります。魏の黄初4年(223年)に陳羣と司馬懿は鮑勛を弾劾職である御史中丞に推薦します。
鮑勛は青州黄巾軍と戦って討ち死にした曹操の友人である鮑信の息子です。曹丕は前から鮑勛が好きではありませんでしたが、陳羣と司馬懿の推薦だったので仕方なく承諾します。
黄初5年(224年)に曹丕は呉(222年~280年)を討つ計画を立てますが、鮑勛が反対。この件でカチンときた曹丕は鮑勛を降格処分にします。黄初6年(226年)に曹丕が呉の遠征から帰る途中で陳留太守の孫邕が、設営中の曹丕の陣営を横切ります。皇帝の陣を勝手に横切ったので不敬罪です。
本来なら報告するべきですが鮑勛はそれを見逃しました。鮑勛は陣が設営中であったことから罪に問う必要無いと判断していたのです。鮑勛が報告しなかったと分かった曹丕は激怒。本来、罰金で済むはずの内容だったのに、以前から鮑勛が気に食わなかったという理由で彼を逮捕してしまい、とうとう処刑しました。なお、鮑勛の処刑から20日後に曹丕は亡くなったのでした。人々は鮑勛の死を悲しんだと言われています。
鮑勛支持者と曹丕の警戒感
以上が鮑勛疑獄事件の顛末ですが、この時に陳羣は鮑勛を弁護しています。だが、信頼していた陳羣の弁護でも曹丕は、あっさりと退けて鮑勛を処刑します。これはどういうことでしょうか?
陳羣と一緒に鮑勛を弁護したのは以下の通りです。
まず鍾繇と辛毗は陳羣と同じ豫洲潁川郡の出身なので同郷関係の繋がりと分かります。華歆は陳羣の祖父の陳寔と知り合いだったので、その関係でしょう。
ちなみに、辛毗の娘である辛憲英は後漢(25年~220年)清流系官僚である羊続の子の羊耽に嫁いでいます。さらに羊耽の兄弟の羊衜は司馬師の妻の父。
司馬師の父である司馬懿は、陳羣と一緒に曹丕の太子四友となった人物であるのは前述しました。衛臻の父の衛茲は、曹操の曹操挙兵当時のパトロンであり董卓討伐軍に従軍して討ち死にしています。
衛茲に関して一般の著書では上記のことしか記されませんが、彼はもう1つ知られていることがあります。それは郭泰から評価を受けていることです。郭泰という人物は清流系の学者であり、生涯官職には就きませんでしたが人々から非常に人望がありました。
郭泰の評価に関しては諸説があり、今回の話からずれるのでここでは論じません。1つ言えるのは郭泰から評価されることは人生においてプラスだったことです。
最後の高柔は若くして北海の王修に才能を認められています。王脩は鄭玄の弟子です。つまり、高柔は北海グループの系列に該当します。
北海グループは専門的な用語であり孔融・鄭玄・王修などの学問、政治、経済、文化で形成された地域派閥です。後漢末期には、このような地域派閥がいくつも存在しました。ちなみに辛毗は血縁は遠いですが孔融と親族関係です。
上記の件から分かるとおり、鮑勛を擁護した人たちは本人か親族が後漢末期の清流系官僚と関わりを持つことが多いです。清流系官僚は横の連帯が大きい存在であり、後漢末期の党錮の禁から明らかです。当然それは皇帝である曹丕にとって面白くありません。
つまり曹丕が陳羣の弁護を無視したのは、魏の官僚たちの「横の連携」を抑え込んで皇帝が政治運営を行う「縦の連携」を目指すためだったからと推測されるのです。
三国志ライター 晃の独り言
陳羣は横山光輝氏『三国志』では1コマしか登場しないキャラクターです。中学の時の私も名前だけは記憶していたのですが、顔は全く覚えていません。調べてから魏の中枢を担っている人物と分かりました。割とマンガの『三国志』はそういうキャラクターが多いですね(笑)
※参考文献
・狩野直禎「陳羣伝試論」(『東洋史研究』25-4 1967年)
・佐藤達郎「曹魏文・明帝期の政界と名族層の動向:陳羣・司馬懿を中心に」(『東洋史研究』52-1 1993年)
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