三国志を代表するジジイ武将と言えば、五虎将軍の黄忠や厳顔、呉で言えば赤壁の戦いで重要な役割を演じた黄蓋、晩年はかなりのジジイだった趙雲や魏の張郃がいます。
ここで、挙げただけで5人ですが、実は三国志には、まだまだ元気なジジイ武将が存在したのです。今回は老齢で元気に戦場に出たジジイ武将を紹介しましょう。
この記事の目次
71歳で護匈奴中郎将 田豫
田豫は劉備と共に黄巾賊討伐に参加した人物で82歳まで生きたと書かれています。生没年は不明ですが、西暦184年に戦争に参加できるレベルなら最低でも15歳にはなっている事でしょう。だとすると、西暦169年頃に誕生し82歳ですから西暦251年に死去した事になります。
そんな田豫の軍歴最終キャリアは、正始年間(240~49)の初めに使持節・護匈奴中郎将となり振威将軍を加えられ幷州刺史を兼領した事で、異民族は田豫の威名を聞き相い率いて貢物を差し出し、周辺は落ち着いて百姓は懐いたと書かれています。西暦240年と言う事はこの時点で田豫は71歳となり古希を越えていたという事が分かりますね。
この後、田豫は洛陽に異動して衛尉になりますが、
「70歳を過ぎて役人やっているのも恥ずかしいので引退させて下さい」と、同じくジジイの司馬懿に願い出て「いやいや、あなたは体が頑強だから大丈夫」と諭されて、なかなか隠居できなかったそうです。
具体的な戦闘記録がないのは寂しいですが、71歳で馬に乗って激務に耐えている時点で、立派なジジイ武将といえるでしょう。
75歳で初めて軍の指揮を執る 高柔
高柔は兗州陳留郡圉県の人で、最初は高幹に仕えましたが、袁紹が滅ぶと曹操から離反した高幹を見限り曹操に仕えます。
以後、曹操にいつか殺してやると思われながらも、戦々恐々とキャリアを積み上げ、尚書郎、丞相理曹属・潁川太守・丞相法曹掾を歴任。魏が建国されると廷尉として23年間も司法に携わりました。
さて、純粋な官僚だった高柔は、嘉平元年(西暦249年)郭皇太后の詔勅で突如呼び出され、仮節・行大将軍事に任命され、曹爽の陣営を占拠するよう命令されます。この時、司馬懿は「高柔、君は周勃になってくれ」と言ったとか、幸いにも曹爽には決断力も戦意もなく陣営はあっさり制圧できました。
なんの軍事キャリアも持たない高柔この時75歳、まあ、実際の戦闘は専門の将軍がやったのでしょうが、まさか、人生の最晩年に自分が大将軍として軍を指揮するとは高柔も夢にも思わなかったでしょうね。
にわか手柄で高柔は万歳亭侯に封じられ、曹髦が即位すると、安国侯に封じられ太尉(防衛大臣)を任されます。結局、高柔は景元4年(263年)まで生きて90歳の長寿で亡くなりました。
日々の生活を工夫で楽しくする『三国志式ライフハック』
72歳、死ぬ寸前まで軍を指揮 ジジイ司馬懿
若い頃には、私は中風になりましたとジジくさい仮病で仕官を断っていた病弱イメージの司馬懿ですが、実際は根っからの軍人であり、強行軍と持久戦に耐える事が出来るタフな肉体の持ち主でした。
そんな司馬懿の最終戦歴は、嘉平3年(西暦251年)で、司馬懿は72歳になっていました。しかも、この時、司馬懿は本当に重病になっていて、宮廷に長時間参内出来ず、重要案件については、曹芳が司馬懿の屋敷を尋ねて相談するという逆立ち状態です。
こんな司馬懿の態度を横暴だと憤った王淩がクーデターの計画を立てると、これを察知した病床の司馬懿は、自ら中軍を率いて船で流れに沿って進み、まさか司馬懿自ら来るとは思っていなかった王淩を捕らえる事に成功しました。
これが4月の事で、司馬懿が死の床に臥したのが6月、そして同年8月には死んでいるので、ジジイ将軍司馬懿は重病状態でギリギリまで戦い続けたと言えます。
【次のページに続きます】