日本全国を統一し、戦国時代を終わらせた豊臣秀吉は、次なる野望を持ちました。それは唐入りという、明国への攻撃・制圧です。その手始めに朝鮮半島に出兵。それが文禄の役と慶長の役と呼ばれるものでした。今回はその中でも文禄の役、当時最大級のアジア大戦について解説します。
この記事の目次
文禄の役原因
秀吉が「唐入り」を目標にする朝鮮出兵を行った理由については諸説あります。
1.愛息・鶴松と弟・秀長の死による鬱憤説
2.功名心・征服欲によるもの
3.国内の動乱を外に転じるための
4.領土拡張説(朝鮮国王と戦国大名と同様に扱った)
5.勘合貿易説(明との仲介要請を朝鮮が拒否したこと)
6.国内集権化の構造的矛盾を解決するための外征
7.国内統一策の延長説(当時の日本に外国意識がなかった)
8.東アジア新秩序説(中国冊封体制の破壊)
9.キリシタン諸侯排斥説
10.元寇復讐説
11.朝鮮属国説
秀吉は唐国(中国・明)の侵攻については日本を統一する前1585年ころから意識していたとされます。関白就任直後の書状でそのような記述としてが残っていました。そして1587年には対馬の宗義調が秀吉の命を受け、「朝鮮王を秀吉様の元へ上洛させろ」と要求します。
宗は朝鮮側に通信使を要請しますが、武力で統一した秀吉に対して「簒奪するような野蛮国家に送る必要がない」と朝鮮側が一蹴。しかし宗の度重なる交渉と要請により1590年に通信使がきました。ここで小西行長ら家臣が「朝鮮は秀吉様に服属したのでございます」と秀吉に嘘を伝えます。
そして秀吉は朝鮮に対して「唐入りのための道案内(仮道入明)」を要求。しかし朝鮮側が拒否します。ついに秀吉は朝鮮半島経由で唐入りの実行に移し、準備を開始。諸大名に指示し、遠征軍の宿営地として九州に名護屋城を築城しました。
この際に行長が嘘を取り繕うために「帰服したはずの朝鮮が変心してしまった。かくなる上は奴らを成敗するため、自らが先鋒を務めまする」と秀吉に願い出ます。それが許可されることにより、いよいよ出兵が始まりました。
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動員兵力と大名
文禄の役における日本軍の動員数です。この時代日本全国の石高数は2000万石でした。1万石あたり250人の兵が動員可能と言われており、その際の総兵力は50万人となります。しかし実際に動員されたのはは25~30万人でした。
記録によると、実際に朝鮮半島に向けて出撃した出征軍は15万から20万人で、日本側の拠点である名護屋城に滞留した統監軍は10万人です。出征軍は1~9番隊に分けられました。
各部隊の代表的な大名は次の通りです。
一番隊、宗義智(先導役)小西行長(先鋒)、有馬晴信、松浦鎮信
二番隊、加藤清正、鍋島直茂、相良長毎
三番隊、黒田長政、大友吉統
四番隊、毛利勝信、島津義弘、高橋元種
五番隊、福島正則、長曾我部元親、戸田勝隆、蜂須賀家政、来島水軍
六番隊、小早川隆景、立花鎮虎、毛利輝元
七番隊、宇喜田秀家(総大将)、石田三成ら奉行衆
八番隊、竹中重利(軍目付)、浅野幸長、稲葉貞道
九番隊、豊臣秀勝、織田秀信、片桐且元、亀井茲矩(水軍)
日本水軍、九鬼義隆、脇坂安治、藤堂高虎
統監軍・予備軍、徳川家康、豊臣秀保、前田利家・利長、結城秀康、上杉景勝、京極高次など
このほかにも多くの大名、旗本が名護屋に着陣しました。
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漢城の占領
日本軍は宗義智と小西行長を一番隊として、対馬から釜山に上陸しました。これは天正20年4月12日午前8時のことです。朝鮮側の山僉使鄭撥(ていはつ)は、この船団を見て慌てて城に戻ります。そしていきなり対決したわけではありません。
行長らは書状で鄭撥に「今からわが軍は、明国を攻撃する。そのために道先を案内してほしい」と伝えます。しかし鄭撥は拒絶。翌日の朝、ついに朝鮮出兵での戦端が切られました。最初の戦いは釜山鎮の戦いと言います。この戦いで1200もの首を上げた日本軍は、お昼に釜山を占領。
ここで鄭撥が戦死。さらに多大鎮の砦にも攻撃が加えられ、これも占領します。長く戦国時代を戦ってきた日本軍の戦闘力は非常に高く、圧倒的な力の差の前にあっという間に釜山の周辺は 日本軍に落ちました。
朝鮮側は大敗したために慌ててしまい、多少の交戦があったものの、漁船を誤って攻撃したり、倉庫に火をつけて逃げるものが現れたりと、自滅に近い状況で日本軍の進軍を許しました。やがて日本軍も六番隊の小早川隆景が上陸するなど、どんどん兵力を増強して進撃します。
二番隊の加藤清正と鍋島直茂は慶州城を攻撃し、これにも勝利し占領。4月20日に大邱城を小西行長は占領します。こうして確実に首都京城を目指しました。ところがここで「清正の考えには納得できぬ」「何!行長のやり方こそ気に食わん」と行長と清正の確執が置きはじめます。
ふたりの確執はここからさらに強まり、のちに関ケ原の合戦への遺恨として残ります。一方朝鮮王朝内部では、圧倒的な勢いで攻め寄せる日本軍について議論を重ねます。その際に首都の治安を維持しようと必死。しかし次々と入る不利な情報の前に、市内はパニックに陥ります。
「やむを得ぬ。一旦都落ちじゃ」と国王・宣祖は4月29日に王妃や子供たち、次女や朝官、奴婢などを100余名をもって京城の敦義門をくぐり西に落ち延びました。その後5月1日に行長らの先発隊は驪江を渡ります。そして5月2日、ついに日本軍が漢城府を占領しました。
これは開戦からたった21日で達成したことになります。
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朝鮮水軍との遭遇
朝鮮出兵により日本軍との戦いを語る上で朝鮮水軍の存在は需要な意味を持ちます。特に李舜臣という水軍の将は、「倭寇の親玉など返り討ちにしろ!」と、日本軍を何度も迎え撃っています。日本軍の釜山上陸時、最初に遭遇した慶尚道水軍は自滅しました。
李は南部巨済島の東にある玉浦と言う入り江で、日本軍と遭遇します。玉浦海戦と呼ばれるこの戦いで、朝鮮水軍は停泊中の日本側の水軍と輸送船団を襲撃します。朝鮮水軍は伝統的に倭寇と戦いを繰り広げており、独自の戦法を構築していました。
それは倭寇が接近して攻撃してくることから、敵船とある程度の距離を保つことでした。そこで最初に火薬の鉄矢を放つ火砲や弓矢で敵を打つことです。そして最後は火矢で船を焼き払いました。「遠くから攻めるとは卑怯な奴らめ」と、接近戦が当然と思っていた日本軍には想定外のことです。
日本軍の船は次々と炎上しました。序盤の日本軍連戦連勝の中で、朝鮮軍が勝利した初めての戦い。合浦と赤珍浦でも同様の戦いが行われました。しかし日本軍に致命的な損害を与えることなく、李側が引き上げます。
その理由として日本軍の反撃を恐れたこと。戦略的にあえて深い追いをしなかったともいわれています。
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