今回は光武帝……というより、光武帝と王莽について、お話をしていきたいと思います。王莽と言えば漢王朝を終わらせた、皇位奪者。
そして光武帝と言うとその漢王朝復興を成し遂げた人物。しかし実はそんな二人にはある共通点が……というのが、今回のお話です。
この記事の目次
王莽
王莽と言えば漢王朝から禅譲され、新王朝の皇帝となった人物。この王莽について少し解説していきましょう。元々、王莽の叔母に当たる王政君が元帝の皇后になったことで王莽の一族の権威は高まっていったのがきっかけです。
しかし王莽もこの時点で大出世した……という簡単なストーリーではありません。王莽の父、その後継者の兄が早死したことで王莽は侯に取り立てられることはなく、王莽の家は貧しかったのです。
王莽は儒教の教えを受けたことで身を慎むことを学び、目上の人物を大事にしました。また兄の子を実子以上に可愛がったと言います。この儒教に関しては後々も出てきますので、ひとまず置いておきましょう。
王莽による皇位簒奪に至るまで
紀元前22年、伯父が倒れ、王莽は検診的に看病しました。叔父の王鳳は死の際に王莽を成帝に託しますが、ここから王莽の道が開けます。
しかし成帝死後、王氏を嫌った哀帝によって王莽は一時政治の場から遠ざけられるも、復帰嘆願が多くあったことで再び返り咲き、哀帝が早逝すると平帝を擁立、自分の娘を嫁がせ皇后にすることで地盤を固めます。
王莽について反発する声も少なくない中、王莽は世を味方にするべく実子二人を自殺に追い込み、各地から王莽支持の嘆願書を出させることで世論を操作。
自らの敵を次々と排除した王莽は最終的に自らが皇帝に即位。ここに新王朝が開かれます。
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王莽が目指したのは儒教国家?
しかし王莽が終わらせた漢王朝は、決して上手く運営されていたとは言えませんでした。王朝の財政は悪化しており、民の中でも貧富の差が大きく、民衆には既に不満と不安は広がっている状態でした。
なので新しく皇帝となった王莽は新しく政策をいくつか行うのですが、これらの政策は儒教に基づいて行われました。ですが実際に王莽がやった政策は儒教の名を借りただけの物であり、急ぎ過ぎた政策は多くの不満と不安を増大させるものとなったのです。王莽の政策に関しては次にいくつか説明しましょう。
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王莽の政策とは?
まず土地制度改革。これは地方豪族となっていた各所の地主から土地を取り上げ、小作農たちに与え、豪族らの奴隷売買を禁止し、奴隷の解放など一見すると理想的に見える政策ですが、豪族たちは大反発を起こすことになります。
次に商業政策として前漢の時代から行われていた塩や酒の専売特許、これを国の特許として強化したことで物価を安定させるように取り組みました。しかしこれは商人たちの反感を産むことになります。また同時に金融政策も行い貨幣の発行をしましたが、急にやり過ぎたことで市場の混乱を招きました。
そして外交見直し、名称見直しによって多くの反感だけでなく、各所で混乱を呼ぶことになります。このため歴史においても王莽の政策は評価が低く、王莽自身の評価も、漢王朝からの簒奪者ということも相まってかなり低くなっています。
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