こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
太祖に関して
因みに太祖という名前も、決して劉邦だけにつけられた廟号ではありません。太祖という文字を見てみれば分かるように、太い祖先、祖先は始まりでもあり、根っこでもあります。それが太いというのはとても演義が(誤字)良い名前ですね。
という訳でこの太祖という廟号は、初代皇帝に良く名付けられました。
関連記事:李靖(りせい)とはどんな人?曹操と孔明の二人から学んだ初唐の名将
関連記事:趙匡胤ってどんな人?豊臣秀吉のように民衆に愛された皇帝
三国志に馴染み深い存在で言うと曹操。魏の建国者でもある曹操は、廟号として太祖、と名付けられています。劉邦の子孫は劉備なのに曹操が劉邦と同じ廟号というのは何だか奇妙な縁を感じますね。
高祖
廟号として太祖があるというお話はしましたね。そして劉邦、曹操が太祖として名付けられた。で、劉邦の通称である方の高祖もまた、廟号として名付けられています。
馴染み深い所では曹丕、時代を下がって劉淵、石勒。死後に追尊された人物として司馬懿がいます。曹丕と司馬懿が共に「高祖」と呼ばれているのは何だか曹操と劉邦以上に不思議な縁を覚えませんか?
こう並べてみると関係はないとはいえ、何だか並べられた名前に面白さを感じます。後々の時代だからこその面白さですが、これも歴史の妙味でしょうか。
関連記事:【極悪】司馬懿はいかにして屯田制を食い物にしたのか?
関連記事:曹丕はなんで国号を魏にしたの?実は他の国号になる可能性もあった!?
「それ以後はお前の知る所ではない」
最後にちょっと劉邦の最期を。その死の淵で、呂后は夫に尋ねました。
「貴方の死後、相国が死去したら、誰を代わりにしたらいいでしょうか」
「曹参がいいだろう」
「その次は誰を代わりにすればいいでしょうか」
「王陵がいいが、あいつは少し愚直である。陳平に補佐をさせよ。陳平の知恵は有り余るほどが、一人に任せてはいけない。周勃を大尉にするといいだろう」
「更にその次は」
「それ以後はお前の知る所ではない」
漢王朝の政治を任せられる人間は、代わりました。
しかし漢王朝はそれ以後も発展し、存続し続け、王莽によって一度滅ぼされるも、漢王朝復興として再び光武帝が後漢時代を作ります。
三国志の王朝は既に末期、しかしその漢王朝は400年も続き、一度滅んでも再び蘇ったのです。この漢王朝こそ太祖であり、高皇帝・劉邦が開いた新しい時代だったのでした。
関連記事:あの曹操が憧れた? 後漢建国の祖・光武帝は実はお茶目だった
関連記事:光武帝という存在がいったいどれだけ「すごい」のか?
三国志ライター センのひとりごと
スタートは「太祖と高祖ってなんぞや」という疑問でした。しかしそれを追っていくと奇妙な縁があり、そして長い歴史がありました。漢王朝は三国志の始まりとだけ見ると既に終わりの時代ですが、そこに至るまで400年の時間があったのです。
その始まりを開いたのが劉邦と考えると……時代は違えど、劉邦もまた長く語られるべき英傑の一人だったのですね。今後も劉邦にも目を向けつつ、三国志の沼にドはまりしていきたいと思います。
とぷん。
参考文献:史記 第8高祖本紀
関連記事:皇帝には、二つの名前があった!?諡号(しごう)とは何?
関連記事:皇帝には、二つの名前があった!?諡号(しごう)とは何?