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この記事の目次
鍾会に落としいれられる鄧艾
鍾会は蜀征伐の命令が下った時から、蜀を攻略して自らが王になり逆に魏を攻め滅ぼそうという野望を育てていました。
ところが権謀術数は得意でも、実際に兵を動かす能力には乏しい鍾会は、蜀征伐の手柄を成り上がりの鄧艾にさらわれ、内心苛ついていたのです。
そこに鄧艾の老害込みの独断専行が出て来たので、鍾会は衛瓘、胡烈・師纂を集めて、鄧艾の行為が反逆行為である事を確認し、司馬昭に鄧艾を捕らえるように上奏しました。
こうして鄧艾は息子と2人でいる所を衛瓘の兵に親子共々捕らえられ、囚人護送車でドナドナ状態で都に護送される事になりました。
魏氏春秋によれば、鄧艾は「私は忠臣であり罪無くして捕らえられる、秦の白起の惨い運命が再来した」と言ったそうですが、いやいや、いくらなんでも洛陽から遠く離れた蜀でスタンドプレーを繰り返せば、そりゃあ更迭もされるよと思いますよ。
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鍾会は自滅するが鄧艾は衛瓘の指図で殺害
鄧艾を護送車に載せて成都から出した後、鍾会は成都に入り姜維と結んでクーデターを起こしますが、衛瓘はクーデターに反対であり、結局、魏兵に叛かれて逆襲され、姜維共々斬殺されて最期を迎えました。
鍾会と姜維が自滅した事で、鄧艾の兵は護送されている鄧艾を追いかけて、彼を救い出して成都に帰還します。
しかし、衛瓘は鍾会に同調し鄧艾を罪に落とした事で自分が鄧艾・鄧忠親子に報復されるかも知れないと恐れました。
そこで、過去に鄧艾に処刑されそうになった事を恨んでいる田続を唆し、兵力を与えて鄧艾の軍を追撃させ綿竹の西で鄧艾の姿を捉え鄧忠と共に殺害しました。
田続は、かつて江油で進軍を拒んだ事で鄧艾に斬られそうになった事があり、それを恨んでいたと 習鑿歯の「漢晋春秋」にはありますが、正史三国志の陳寿の本文では、田続は鍾会の配下であり事実の食い違いが見られます。
田続が鄧艾を斬った動機は不明ですが、いずれにせよ鄧艾は復権する事無く鍾会に陥れられ衛瓘の指図で殺害されたのでした。
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鍾会の乱 鄧艾まとめ
鄧艾は、しばらく逆賊扱いでしたが司馬炎の時代に異例の名誉回復を果たします。
それにより反逆者の汚名はそそがれるのですが、強情で人の意見を聞かず功績を誇って自惚れてしまう性格が、鍾会や衛瓘に利用され災いを招いたのは否定できない事実でしょう。
三国の一角を滅ぼす空前の大功績を建ててしまい、鄧艾は返って自分の人生を危うくしてしまったのです。
参考文献:正史三国志
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