三国志の終盤で起きる反乱に鍾会の乱というものがあります。これは、魏の重臣であった鍾会が蜀を討伐した後に蜀の姜維と結託して独立し偽の詔を発し魏に攻め込もうとして未遂に終わった事件です。
この鍾会の乱において欠かす事が出来ない働きをしたのが魏の鄧艾であり、彼が命懸けの山登りや崖下りをしなければ、成都は陥落する事なく当然鍾会の乱も起きませんでした。
そして鄧艾は、まさに蜀を滅亡させた為、鍾会に疎まれ殺される運命を辿るのです。
この記事の目次
鄧艾の履歴
鄧艾は荊州義陽郡棘陽県に生まれました。
幼くして父を亡くし、曹操が荊州を征服した後、母と共に連行され汝南の屯田民となり、12〜13歳で県に召し出されて吏となり農業を監督する役職に就きました。
鄧艾は生まれつき吃音で、その為に周囲に揶揄われていましたが、真面目に仕事をこなして地道に昇進していきます。
こうしてみるとマジメな人なんですが、一方で激しいコンプレックスがあり他人から援助を受けても屈辱感が先になり感謝の意を伝えられないなど、頑固で融通が利かない一面もありました。
鄧艾は、たまたま役目で洛陽に赴く事があり、そこで司馬懿に謁見して才能を見出され、地方官から引き抜かれ、一躍中央の出世コースに乗ります。
その後は、司馬懿のブレーンとして大規模な灌漑事業を指揮し穀物の生産量を増大させたり、将軍として毌丘倹の乱を鎮圧したり、蜀の姜維の北伐を阻止するなど戦功を積み重ね
西暦263年には大将軍司馬昭により蜀討伐の将軍の1人に選ばれたのです。
関連記事:司馬昭とは三国志の中でどのような役割を果たしているのか?
鍾会、剣閣で立往生する
鄧艾は沓中で、ここを拠点にしていた蜀の姜維と対峙します。
鄧艾は命令を下し、雍州刺史の諸葛緒に姜維の背後を突かせて退路を遮断。
天水太守王頎らには姜維の軍営を攻めさせ、隴西太守牽弘には、それより手前で迎撃させて、金城太守楊欣らを甘松に向かわせます。
同じ頃、10万の大軍を率いる鍾会は、斜谷、駱谷より蜀の玄関である漢中を目指して進軍していました。姜維は鍾会の漢中進軍を知ると急いで帰還しようとしますが、楊欣らは、姜維の追撃を行い彊川口まで追い打ちを続けます。
撤退を続ける姜維ですが、この頃、諸葛緒がすでに退路を塞ぎ橋頭に駐屯していると聞いたので、姜維は孔函谷を迂回して諸葛緒の陣営の背後に出るように見せかけます。
諸葛緒はこれに釣られ姜維の迂回を防ぐため三十里ほど後退しました。姜維は諸葛緒の軍が退いたと知ると手薄になった橋頭より一気に退却してしまいます。
諸葛緒は失敗に気付き、姜維の退路を遮ろうとしますが1日の差で逃がしてしまい姜維は何とか東へ引き上げ剣閣の守備につくと鍾会に備えました。
この剣閣は、天然の要害であり鍾会はすぐさま姜維に攻勢をかけますが、なんとも出来ずに膠着状態に陥ります。
飽きっぽい鍾会は、戦争を諦め退却する準備を開始しました。
関連記事:姜維の最大の功績は鄧艾・鍾会を破滅させたこと?蜀の最終章をギリギリで盛り上げてくれた彼に感謝
関連記事:鍾会は司馬昭にとっての張良か韓信か?走狗烹らるとはこのことか!
鄧艾、命懸けの秘境探検で成都を陥落
ここで鄧艾は鍾会に献策します。
「剣閣は堅牢で簡単に落とす事は出来ません。そこで、迂回して陰平より横道を通り漢の徳陽亭を経て涪へ向かえば、剣閣から百里、成都から三百余里の地点に出て、敵軍の心臓部を突く事が出来ます。
そうなれば、剣閣の守備兵は必ず涪に駆けつけるので剣閣の守備は少なくなり、突破は容易になりますし、仮に剣閣が動かずとも涪に対応する兵力は少なくて済み、私の兵だけで成都を落とすのが簡単になりますが、いかがでしょう?」
どの道、ジリ貧の鍾会は、自分が損をする事もないので、鄧艾の進言を許可します。
鄧艾は手持ちの兵だけで、陰平道から断崖絶壁を通過し谷に橋を架け、途中で補給をすてて身軽にし、急な斜面を絨毯に包まって転がり下りて進み、ようやく江油に到達すると、まさか敵が来るとは思わない守将の馬遵は驚き降伏。
鄧艾はその後、綿竹に迎撃に来た諸葛瞻も二度目の攻撃で撃破し諸葛瞻は戦死します。劉禅は「もはやこれまで」と玉璽と綬を鄧艾に手渡して降伏し蜀は滅亡しました。
関連記事:崖から飛び降り蜀に侵攻?鄧艾による成都攻略はどうやって成功したの?
関連記事:黄皓の策謀!劉禅が占いを信じなければ蜀は滅亡しなかった!?
鄧艾は天狗になる
しかし、蜀を滅ぼした後、鄧艾は明らかに天狗になります。恵まれない少年時代を送り、吃音を周囲にバカにされてきた反動でしょうか?
まず、鄧艾は諸王や群臣六十名あまりを連れて降伏してきた劉禅を許し、蜀でも略奪を許さず降伏者も元の仕事に戻したので蜀の民に讃えられます。
ここまでは、恐らく司馬昭の命令通りだと思うのですが、その後鄧艾は朝廷の許しも得ず独断で劉禅を驃騎将軍、太子を奉車都尉、諸王を駙馬都尉とするほか、蜀の重臣たちもそれぞれ元の官位に戻したり魏の官職を授けたり、優秀なスタッフは鄧艾の属官にするなどスタンドプレーが目立ち始めます。
鄧艾は、やがて自らの戦功を誇るようになり、蜀の士大夫に嘲笑されるようになりました。
それでも蜀討伐の功績で鄧艾は太尉に任命され二万戸を加増されます。この頃、すでに70歳近い年齢だったようです。
鄧艾のスタンドプレーは続きます。すでに隠居してもよい年齢であり功績を焦ったのか、成都に駐屯したまま呉征伐の計画を立て、将兵を休ませつつ盛んに農業をして食糧を備蓄し造船を開始していきます。
さらに、劉禅を成都に留めて厚遇し扶風王に任じて財産を戻すなどし、呉の孫休の自発的な降伏を誘いました。
鄧艾がこれらの一連の計画を司馬昭に告げると、ここまで権限を許していない司馬昭は困惑、軍監の衛瓘に命じ鄧艾を戒め自分の考えだけで勝手な行動を起こさないよう注意します。
ところが鄧艾は大人しくするどころか、兵法書の文句を引いて、戦地において将軍は君主の命令をあえて聞かない事もあると反論しました。
これはいけません。さしもの苦労人鄧艾も、生来の強情さに大手柄の慢心、それに老害が加わり、自分が何をしているのかよく分かっていないようです。
ここでチャンス到来と1人、ほくそえんでいる男がいました。鄧艾に蜀攻略の手柄を奪われてプライドを傷つけられた鍾会です。
【次のページに続きます】