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九死に一生!曹操最大の危機を救った荀彧

2021年4月20日


 

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魏の皇帝になる曹丕

 

三国志の物語において最大の勢力として知られ蜀の劉備(りゅうび)と呉の孫権(そんけん)が同盟を結んでようやく対抗できるほど強さを誇っていたのが魏です。

 

曹操

 

その魏の強さの源が曹操(そうそう)であり政治家・軍略家さらには自身の武も並ではなく非の打ち所がない人物です。しかしそんな曹操も生涯においてその立場を危ぶむ場面が存在します。

 

魏曹操と魏軍と呉軍

 

最も有名なものは赤壁(せきへき)の戦いですがその赤壁よりも窮地となった場面が二度目の徐州(じょしゅう)攻めの際に発生した兗州(えんしゅう)での反乱です。

 

荀彧

 

今回はそんな曹操にとって最も危うい場面であった兗州での反乱とその窮地を救った荀彧(じゅんいく)の働きについて紹介したいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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父と弟を殺された怒れる曹操

黄巾賊を退治する曹操

 

董卓(とうたく)連合軍解散以降曹操はえん州を統治し黄巾軍の討伐を行うと同時に降伏した勇猛な人材を選抜し青州兵と名付け勢力を拡大していきました。

 

陶謙軍に襲われ財宝を盗まれ亡くなった曹嵩

 

そんな中193年頃に曹操の父である曹嵩(そうすう)や弟の曹徳(そうとく)を徐州の陶謙(とうけん)に殺害されてしまいます。父親と弟を殺されたことを知った曹操は怒り狂って大軍で徐州を攻めます。

 

ブチ切れる曹操

 

曹操の怒りはすさまじく『後漢書』によれば、「曹操軍は数十万人の男女を殺害、それでは飽き足らず家畜までも殺して回った。そのため曹操軍が通った後は人っ子一人いなく鶏の鳴き声さえ聞こえなかった。また泗水が血によって赤く染まりその大量の死体により水の流れが堰き止められた」とあります。

 

美化された袁紹に羨む袁術

 

このように徐州攻めは弔いという形となっておりますが徐州を奪うための名目であるという説もあります。というのも徐州攻めを行う前の曹操は兗州を治めておりましたが当時の一大勢力である袁紹や袁術には及びませんでした。

 

 

そのため勢力を拡大すべく機会を伺っていたところに父と弟が殺されたとの一報がありそれを利用したわけです。虐殺については当時の陶謙は民心を集めており各地で激しい抵抗にあったため仕方なく行ったという見方もあります。

 

苛ついている曹操

 

いずれにせよこの徐州での大虐殺が後に曹操に災いをもたらします。

 

関連記事:曹嵩とはどんな人?本当は曹操と仲が悪かった!

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第二次徐州攻めの際に発生した反乱

曹操に仕える陳宮

 

第一次の徐州攻めから一年もたたずに曹操は再度徐州を攻めます。その際に兗州の一郡である東郡を当時曹操に仕えていた陳宮(ちんきゅう)に守らせます。

 

呂伯奢事件 曹操、陳宮

 

演義では呂伯奢(りょはくしゃ)殺害事件により曹操を見限ったとされる陳宮ですが正史では長く曹操に仕え曹操がえん州を得る際にも一役買っています。

 

曹操の再度仕官の勧誘を断る陳宮

 

しかし徐州攻めの際に行った大虐殺で曹操を見限り曹操の親友である陳留郡(ふちんりゅうぐん)の太守張邈(ちょうばくの弟張超(ちょうちょう)と反乱を企て最終的には張邈をも取り込み曹操への反乱を実行します。

 

呂布のラストウォー 呂布

 

またその際に当時各地を転々としていた呂布(りょふ)を呼び込み盟主としています。呂布が兗州入りする兗州の各郡はこの反乱に呼応し曹操に反旗を翻します。

 

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陳宮

 

九死に一生!曹操を救った荀彧の機転

荀彧

 

呂布が兗州入りして程なく張邈は使者を荀彧の守る済陰郡(さいいんぐん)甄城県(けんじょうけん)に派遣して「呂布殿が主君(曹操)の行っている徐州攻めの加勢に参られた。その分の兵糧を受け取りたい」と伝えに行きました。

 

目玉を食べる夏侯惇

 

すると荀彧は張邈が謀反したのだと悟り防備を固めるよう指揮すると同時に東郡太守を務めていた夏侯惇(かこうとん)へこのことを伝え加勢に来るよう依頼します。

 

夏侯惇

 

夏侯惇が到着すると謀反に加担していた部隊長や仕官を殺し曹操が戻るまでの間郡を死守します。その後まもなく当時豫州刺史(よしゅうしし)であった郭貢(かくこう)が兵を引き連れ来城し荀彧に面会を求めます。

 

「郭貢は陳宮・張邈とつながりがありもし面会を受ければ殺されてしまう」と夏侯惇らが懸念を示しますが荀彧は

 

荀彧

 

「郭貢と陳宮・張邈はまだつながりはなくどちらにつくか決めかねている状況であるはず。ここで面会を拒めば面子をつぶすことになり陳宮・張邈側についてしまう可能性が高い」とし面会を受けます。

 

荀彧の堂々たる振舞をみた郭貢は曹操軍はいまだ健在であるとして兵を引き上げ以後中立の立場を保ち続けます。もしこの時郭貢・陳宮・張邈が手を組み攻めてきていたら済陰郡の城県も陥落し曹操は帰る場所をなくしていたでしょう。

 

荀彧

 

そうなれば呂布軍と徐州軍に挟み撃ちにされ曹操は命を落としていたと思います。まさに九死に一生の危機を荀彧の機転によって救われたといっても過言ではないでしょう。

 

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三国志ライターボス吉の独り言

曹操と荀彧

 

曹操は弔いのためか野心のためか徐州を攻め、その際に民を虐殺します。その非道さから自身を窮地へと追い込みますが荀彧の起点により何とか勢力を維持しその後勢力を拡大していきます。

 

プロ野球を学んでいる荀彧

 

徐州の大虐殺に対して荀彧がどう思ったのかも疑問ですがそんな曹操を見捨てず逆に救った荀彧は曹操にとって忠臣以外のなにものでもないでしょう。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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