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この記事の目次
羅憲とは?生い立ちから
猛攻に耐え、城を守り切った羅憲とはどのような人物だったのでしょうか?
羅憲は幼いころから学問が得意であり、蜀に仕えることになりました。彼はまじめで、私腹を肥やすこともない清廉な人物だったようです。文官として劉禅の側近として活躍し、また呉への使者として何度か派遣され、呉人にその人柄を絶賛されていたようです。
当時の蜀は宦官の「黄皓」が実権を握っており、政治は大いに乱れていました。そんな黄皓と羅憲は対立して左遷されてしまいます。蜀の降伏後は左遷先の永安城の守備をそのまま担う事になりました。蜀降伏の報が伝わると永安でも逃げ出すものが出るなど、混乱が生じました。
羅憲は騒いだ男の1人を斬り、民心の安定に努めました。そんな時に呉が襲来。見事羅憲は「永安城攻防戦」で呉を撃退することに成功します。
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呉を撃退したあと
呉を撃退した羅憲はその功績が認められ、将軍、そして地域の太守として昇進することになりました。魏が滅び、晋(西晋)が成立した後も引き続き仕え、のちに中央に召し出されています。
そこで晋の皇帝「司馬炎」に有能な人物を推薦するように求められ、何人かを推薦することになります。
羅憲が推薦したものは蜀の旧臣ばかりでしたが皆、取り立てられています。その中には「三国志」の著者「陳寿」も含まれていました。晩年には元々の任地永城安周辺に戻り、異民族の慰撫や民心の把握に努め、度々呉への進軍の建策もしています。羅憲は270年に生涯を終えています。
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三国志ライターみうらの独り言
蜀末期の有名武将と言えば姜維ですが、今回紹介した羅憲もなかなかの人物だったようですね。あまりスポットライトの当たらない三国志末期の武将たちですが、隠れた勇将が他にもいるかもしれませんね。
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