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この記事の目次
どうして曹丕は張遼を前線に出し続けた
曹丕はどうして、病み上がりの張遼に無理させてまで呉との戦いに向かわせて、過労で病死させてしまう羽目に追い込んだのでしょうか。それは、どうも黄初六年(225年)の曹丕の詔にヒントがあるようです。
文帝曰く「215年の合肥の戦いでは、張遼&李典が歩兵800で賊10万を撃破した。古来より兵を用いてこの様な大勝利を聞いた事がない。この功績は現在に至っても賊の士気を奪うに十分で国の爪牙というものだ」
つまり、合肥の勝利は伝説となり、その立役者である張遼は存在するだけで、呉軍の士気を削ぐレジェンドと化していたとも言えます。実際に孫権が、病み上がりとはいえ、張遼を甘くみるなと言っているので、その効果は抜群だったのでしょう。
こうなると曹丕は、張遼を前線に出して呉の士気を挫くのがセオリーになってしまい、多少調子が悪かろうと張遼に出てもらうほかにない流れになったと考えられます。
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曹丕が人物に入れ込むとロクな事がない
曹丕が張遼の武力と声望を頼りにし、厚く報いた事自体は悪くないですが、曹丕は気に入った人物にトコトン入れ込んで、度外れて厚遇してしまう悪癖がありました。
張遼以外にも、蜀から寝返った孟達を厚遇し過ぎ、魏臣に嫉妬心を起こさせてしまい、曹丕の死後に身の置き場に困った孟達が諸葛亮の寝返り工作に応じたケースもあります。
部下の立場にしても、君主の桁外れの厚遇は、失敗した時の手の平返しを恐れさせる原因になり、重圧を増してしまうだけで、良い事はないでしょう。張遼は頑張りすぎてしまい、寿命を縮めてしまったのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は張遼の寿命を縮めてしまったかも知れない曹丕の厚遇ぶりを解説しました。部下の好き嫌いが激しく、冷たい仕打ちをした事も多い曹丕ですが、逆に好感を持った部下には桁外れの厚遇をし、部下の立場を危うくする厄介な面があるようです。
この辺りがもう少しマイルドなら、曹操に匹敵する名君と呼ばれたかも知れませんね。
参考文献:正史三国志 張遼伝
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