魏の名将として知られる張遼(ちょうりょう)字を文遠(ぶんえん)。
曹操に仕える前は呂布に仕えて武勇を発揮していました。
また現代でも張遼はゲームや小説でも人気がある武将です。
人気のある魏の武将・張遼ですが、
何が原因で亡くなったのか知っている方は少ないと思います。
そこで今回は魏の名将張遼が何歳で何が原因で、
亡くなったのか彼の活躍をご紹介しながら解説したいと思います。
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蒼天航路でもお馴染みの張遼(ちょうりょう)
曹操を主人公にした漫画・蒼天航路(そうてんこうろ)。
張遼はこの蒼天航路にも登場し、
呂布軍の武将として曹操軍と戦いますが、
呂布が敗北したことで張遼も捕まってしまいます。
しかし張遼は呂布軍の他の幕僚達が処刑される中、
曹操に許され曹操軍に参加することに。
張遼は曹操軍に参加すると白馬の戦いで劉備の義弟・関羽と一緒に出陣。
関羽は鬼のような仮面をつけて袁紹軍の猛将・顔良(がんりょう)を討ち取ります。
張遼は関羽が顔良を討ち取った後、袁紹軍を蹴散らす活躍を見せています。
また張遼は烏桓討伐戦で郭嘉(かくか)と一緒に曹操軍の先陣に参加し、
烏桓軍を蹴散らす大功を立てています。
このように合肥の戦い以外にも張遼は活躍していますが、
一体何歳で何が原因で亡くなってしまったのでしょうか。
張遼はどんな最後を迎えたの??
さて今回のメインテーマと言える張遼がどのような最後を迎えたのか、
こちらをここでご紹介しましょう。
正史三国志魏書・張遼伝に彼の最後が記載されています。
張遼は魏王朝を開いた曹丕から孫権討伐戦に参加するように命令。
張遼はこの時病にかかっていましたが孫権討伐戦に参加します。
張遼は長江に近い場所に駐屯していた孫権の武将・呂範(りょはん)を撃破しますが、
この戦が終わった後、彼の病が重くなりそのまま帰らぬ人になってしまうのです。
病にかかっても戦場に出て孫権軍を撃破し、戦場で亡くなった張遼。
戦に生き戦で最期を迎えた武人にふさわしい最後ではないでしょうか。
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張遼の合肥伝説
張遼と言えば合肥の戦いでの伝説的な活躍が有名です。
蒼天航路では張遼が伝説的活躍をした合肥の戦いでは一際、
ピックアップして描かれています。
張遼は孫権軍に奇襲攻撃を立てて陳武を一刀両断。
さらに孫権追撃戦では、呂蒙(りょもう)、甘寧(かんねい)、蒋欽(しょうきん)などの
孫呉の猛将達を簡単に打ち払い、孫権を討ち取る寸前まで追い詰めます。
しかし孫権は馬に川を飛び越えさせる荒業を使ってなんとか、
張遼からの追撃を回避。
この時張遼が乗っていた馬は黒捷(こくしょう)と言い、
とんでもないスピードで走りますが、
水が苦手なのか川に入るのを嫌がっていました。
張遼はこの黒捷が苦手な水へ飛び込ませないで、
思いやるシーンがちょっと可愛いので気になる方は見てください。
正史三国志でも張遼はとんでもない活躍。
張遼は孫権軍が合肥近辺に駐屯して攻撃の準備をしている事を知ると、
深夜決死隊を募ります。
そして張遼は翌早朝決死隊を率いて、呉軍の中に突撃。
張遼は孫権を討ち取る寸前まで追い詰めますが、
孫権軍に包囲される可能性を危惧して撤退を開始。
張遼はこの撤退の時、決死隊を誰ひとり死なせることなく、
合肥城へ帰還することに成功し、孫権軍へ大打撃を与えます。
孫権軍はこの奇襲攻撃で出鼻をくじかれ、撤退してくことになります。
曹操は合肥の戦いの後、張遼に合肥での活躍を聞いて、
大喜びしながら張遼を褒め讃えたそうです。
また三国志演義では正史三国志のような派手さはありませんが、
孫権軍のかく乱を防ぎ敵将を討ち取る活躍しています。
三国志ライター黒田レンの独り言
合肥で伝説的な活躍をし、魏の名将と言える張遼の最後をご紹介しました。
呂布や関羽など名将と呼ばれる人達は張遼同様戦場で最期を迎えています。
彼らの最後ははじめての三国志でも紹介していますので、
気になる方はぜひ見てください。
関羽の最後が気になる方へ
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参考文献 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書 今鷹真訳など
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