世の中には運の悪い可哀想な人というのが一定数存在します。それは三国志の世界にもいて、正史三国志の華雄などはその典型人物でした。
華雄は上司の胡軫が嫌われ者だったせいで、とばっちりを受け陽人の戦いで孫堅に捕らえられ、縛り首にされる可哀想な末路を辿ります。
しかし、可哀想すぎる最後故に創作である三国志演義では大活躍す武将としてリメイクされ高い知名度を得る事になりました。
この記事の目次
華雄なの?葉雄なの?
華雄は、正史三国志の孫堅伝にしか登場せず、それも陽人の戦いに敗れ孫堅にさらし首にされるという記述だけです。
さらに華雄は名前にも異説があり、盧弼の「三国志集解」で注にあげられる潘眉の説では、華雄ではなく葉雄であり、その地位も都督ではなく都尉であったとされています。
しかし、三国志の時代には葉の姓を持つ人物は他に見当たらない事から、葉雄は誤植で華雄が正しいのだとか……一方で都督の地位については、陽人の戦いでは大督護の胡軫の配下とされている事から高すぎるとして副官である都尉が正しいと考えられています。
このように華雄は名前の時点で異同が登場する程、地味な人物でした。
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嫌われ者胡軫の部下に
正史華雄の不幸の99%は、大督護の胡軫の配下になった事でした。この胡軫、董卓政権下で東郡太守になっているなど家柄はそこそこいい人物ですが、高い武勇を鼻にかける粗暴な性格で、同僚にも部下にも漏れなく嫌われていました。
どの程度、嫌われていたかというと、後に胡軫は冤罪で游殷という人を殺害しますが、それから1ヶ月もしないうちに病に倒れ、後悔の言葉を口走り病死します。胡軫の死を知った人々は游殷の祟りを受けたのだと喜んで游殷を褒め称えました。
こんな話を聞けば、誰だって胡軫の配下は遠慮したいところですが、董卓は快進撃を続ける孫堅を止める為に胡軫と呂布に兵を率いさせ陽人での迎撃を命じました。こうして華雄は胡軫の部下として従軍する羽目になるのです。
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呂布の計略で孫堅に捕まる華雄
この戦いは最初から不穏でした。自分の武勇に絶対の自信があるらしい胡軫は当初から
「この戦いは孫堅1人を討てば終わる。者ども急いで進撃じゃあ!」
と、強行軍をして、陽人から数十里の広成まで到着しますが、兵士は疲労困憊、陽も落ちたのでやむなく野営する事になります。
ここまででも、人使いの荒い胡軫に随分走らされた華雄ですが、本当のトラブルはここからでした。
胡軫と共に進撃してきた呂布も胡軫が大嫌いであり、このまま胡軫が孫堅と戦い、手柄を立てると面白くない事になると嫌がっていたのです。そこで、呂布が考えたのは虚報で胡軫の軍勢を右往左往させて疲労させ、孫堅に破らせるというえげつない策でした。
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虚報に振り回され疲れ果てる華雄
呂布は部下を使い、静まった陣営内で孫堅が退却したとデマを流しました。胡軫はこれを聴いて大喜び、退却する孫堅軍を追撃すれば労せずして大勝利を得られるからです。こうして疲れ果てた華雄を含め兵士は叩き起こされ、陽人までの数十里(5キロ〜50キロ)を走らされます。
しかし、陽人に辿り着くと孫堅は逃げるどころか備えを堅くしていました。当たり前ですね、呂布のデマなのですから
すっかり騙された胡軫はヘロヘロになり重い鎧を脱いでひっくり返り、再びキャンプを敷いて野営を開始します。呂布は胡軫が寝静まった所を狙い、再び部下を使って、孫堅が夜襲を掛けて来たとデマを流しました。
胡軫は飛び起きて、転がるようにして退却していきます。もちろん、疲れ果て泥のように寝ていた部下の華雄も兵士たちも同様に、どこがどこだか分からない状態でひたすらに敗走しました。
しばらくして、胡軫は、どこにも追手が来ていない事にようやく気づきます。この頃までに、胡軫の軍勢は完全に疲れ果て作戦どころではなくなりました。
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