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この記事の目次
早かった終焉
さて今度は自ら政治の場を仕切ることになった司馬冏。しかし司馬冏は豪邸を立てて優雅な生活をおくり始めるなど、その地位に慢心した行動を取りだします。
果てには自らの自宅で政務を行い、皇帝を蔑ろにして政治を取り仕切るなどの破滅フラグを立て続けました。
ここで動いたのが司馬ギョウ、彼はクーデターこそ司馬冏と共に行ったものの、それ以降は折り合いが悪くなっており、司馬ギョウも司馬冏を取り除こうと画策します。
司馬ギョウの作戦は
「まず長沙王・司馬乂を動かす。司馬乂はたぶん負けるだろうから、それを理由にして洛陽を攻めてから司馬エイを立太弟しよう」
というもの。
が、予想外に大活躍した司馬乂は司馬エイを捕らえてあっさり処刑。
ここに司馬冏は終焉を迎えるのでした。
司馬冏の生い立ち
さて司馬冏の生い立ちを、もう一度見てみましょう。司馬冏は司馬炎の弟・司馬攸と、賈充の娘・賈褒の子です。
父の司馬攸は司馬炎の弟で、司馬昭の子でありながらその兄の司馬師の継子となりました。
この事で司馬昭は後継者に司馬攸を考えたと言われており、優秀でありながら立場から司馬炎に疎まれ、後に無理な出立をさせられて亡くなりました。母の賈褒はと言うと、賈充の娘であり、あの賈南風の異母姉です。賈褒の母は司馬師に処刑された李豊の娘で、賈充と離縁されました。
賈褒は父に母との復縁を必死に懇願するも拒否され、後に司馬炎が復縁をしてはならないと詔をだしたことで悲しんだ賈褒はそのまま死んでしまったとも言われています。そんな彼らの子が司馬冏なのです。
復讐の果てに
司馬一族の子であり、賈一族の血も流れ、それでありながら司馬一族にも、賈一族にも憤りをもって然るべき存在だった司馬冏。
幼い頃はその義憤から行動して、その行動を褒めそやされた司馬冏。しかし彼は政治の場を取り仕切るや否や堕落してしまったかのような行動ばかり取り、最期はあっけなく誅殺されました。彼は何を思い、何のために動いていたのでしょう。
賈一族への誅殺はおそらく母親の一件もあったことと思いますが、それ以降は電池が切れたかのうように精彩を欠きます。
筆者は司馬冏が両親の仕打ちへの憤りだけを原動力に動いていたのではないか……そしてそれが無くなった時、何も無くなってしまったのではないか……どこかそんな風に、感じずにはいられないのでした。
三国志ライター センのひとりごと
賈一族は奇しくもその一族の血を引く、司馬冏によって取り除かれました。しかし八王の乱、ここまででまだ四人目、まだ半分です。残り半分の王たちが起こす戦乱の嵐、お楽しみ下さい。
まだまだ続く八王の乱、次回も更なる深みへ、とぷん。
参考文献:晋書列伝第十 列伝第二十九
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