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ぐらいって何だ
さて劉備はその出生は劉氏の一族であり、漢の皇室の一族とか本当かどうかはちょっと分からないような肩書を持ちつつも、
それでもあっちで負けてこっちで負けてとしている間に蜀の地を手に入れ、その果てに皇帝を名乗っちゃった人物です。
あっちで負け、こっちで負けと言っても、そこからなぜか立ち上がって立ち向かってくるのが劉備の凄さ。もっと言うならば狡猾さであり、力なのです。それを「ぐらい」だなんて、いくら鍾会と言えど不遜過ぎでは?
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名目
と、文句を言いましたが、個人的にはこの「劉備ぐらいには~」という背景には、名目があったと想像しています。劉備は嘗て「漢の皇帝を害する曹操(曹丕)を討伐する!漢室復興する!」という名目で皇帝になりました。
誰でも皇帝になれる訳ではありません、そもそも戦うのには皇帝の命令が必要です。
つまり反乱の名目として鍾会には「魏の皇帝を害する司馬昭を討伐する!」という名目を挙げていたのではないか、ということですね。だからこそ「劉備ぐらいには」なのだと思います。
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鍾会の問題点
ただし、この鍾会の名目には劉備と違って大きな問題があります。鍾会は反乱時、皇帝の身柄を抑えていた訳ではありません。ましてや曹の一族でもありません。
これでは名目に対して行動が付いてきていないので……そういう点を見ると、やはり鍾会は劉備ぐらいにもなれなかったことが良く分かりますね。劉備は真偽はどうあれ劉姓であり、それを利用して皇帝となりました。そういうしたたかさ、分かりやすい名目、それを掲げることができなかった時点で、鍾会は劉備にはなれなかったのでしょう。
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三国志ライター センのひとりごと
因みに「三国志演義」の毛宗崗は「鍾会はうまくいっていたとしても姜維に殺されたと思う」とまで言われています。姜維が鍾会を利用したことを考えると、もしかして劉備云々を言ったのは姜維かもしれませんね。
嘗て諸葛亮が劉備を皇帝にしたように……そういう立ち位置であると、鍾会をそそのかした可能性も出てきます。そう考えるとしたたかさの面では鍾会よりも姜維の方が劉備に近かったのかな……?なんて考える筆者でした。
どぼん!
参考文献:蜀書姜維伝 魏書鍾会伝
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