この記事の目次
張郃
冀州出身の張郃は猛将として知られ、元々冀州刺史の韓馥、ついで袁紹に仕えました。袁紹の下で張郃は将軍となりますが、袁紹の軍師の一人であった郭図とは折り合いがよくありませんでした。
官渡の戦いの時、曹操の奇襲によって袁紹軍の兵糧が焼かれたことを知った郭図は兵糧が尽きる前に曹操本陣を攻め落とすべく総攻撃を主張しますが、現場指揮官の張郃は守りの固い曹操本陣を落とすのは不可能であり、撤退を主張します。
結果的に袁紹は郭図の策を採用し、張郃に総攻撃を命じます。果たして、張郃の読み通り曹操本陣は落ちず、焦った郭図は袁紹に対し、「張郃は自分の策が採用されなかった腹いせに、総攻撃が失敗したことを喜んでいる」と讒言します。
これを聞いた張郃は郭図とその讒言を真に受ける袁紹に失望し、曹操に降伏してしまいます。
張郃の降伏を知った曹操は、張郃の降伏を殷の微子啓や漢の韓信にたとえて激賞しています。この後、張郃は常に曹操軍の先鋒を務め、その勇猛さで天下に名を知られた存在となります。
張郃は曹操・曹丕・曹叡の三代にわたって仕え、息の長い活躍をみせます。
特に、228年に始まった蜀の北伐では、蜀の馬謖の戦術上の誤りを見抜いて蜀軍を大敗させ、諸葛亮の北伐を失敗に追い込んでいます。
三国志ライターAlst49の独り言
いかがだったでしょうか。こうしてみると、曹操やその後の魏に仕えた武将たちの多くは、かつて曹操の敵だった者たちが多いことが分かります。
さらに驚くべきは、一度は曹操に敵対した彼らは、曹操の配下になったのちには曹操や魏王朝に絶対的な忠誠を尽くしており、誰一人裏切っていない点です。
これは、曹操が敵であっても才能があれば厚遇するという態度を貫いたのみならず、曹操という人物のもつ魅力のなせる業ではないでしょうか。
関連記事:曹操が人材集めに熱中していたのは曹騰(そうとう)の影響だった!?
関連記事:曹操の人材登用法が魏国の安定をもたらす!能力主義者・曹操の二段構えの政策とは?