西暦220年正月、漢中を巡る劉備との戦いに敗れて帰還した曹操は病に倒れ65年の波瀾の生涯を閉じました。
そして曹操の後継者は曹丕なので曹操の葬儀は当然曹丕が執り行ったのかと思いきや、実は曹操の葬儀を主宰したのは司馬懿でした。
一体どうしてこんな奇妙な事が発生したのでしょうか?
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葬儀を主宰するのは後継者
儒教圏においては、葬儀を主宰するのは死者の後継者です。そして葬儀を立派に取り仕切る事が後継者としての目に見える正当性でした。しかし、曹丕は立派に成人しているにもかかわらず自ら曹操の葬儀を執り行わずに司馬懿に任せているのです。
一説では司馬氏が儒教の典礼に詳しいので、賈逵が司馬懿に命じてそうさせたと言われていますが、本当にそうなのでしょうか? その頃、曹丕は鄴にいて洛陽からは距離があったのは事実ですが自ら洛陽に出向き、曹操の葬儀をする時間さえなかったのか疑問です。
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曹操の臨終前、曹彰は呼ばれていた
ここに興味深い事実があります。曹操が洛陽で重体に陥った時、曹操は長安にいた曹彰を早馬で呼びつけています。臨終を前にして、曹操の下に呼びつけられるのですからただ事ではありません。しかし、曹彰は間に合わず曹操は死去してしまいました。
ただ、曹彰は諦めきれません。臨終間際に父が自分を呼びつけるからには、自分に王位を譲るつもりだったのだと考え、洛陽で賈逵に璽綬の在処を尋ねます。賈逵は冷静にあらたまり
「すでに太子は鄴にいて、後継者は定まっています。先王の璽綬がどこにあるか、あなたが知る所ではありません」と突き放しました。その後、曹彰は任城王に昇格しますが、王位を狙う者として曹丕にうとまれ毒殺されたという噂もあります。
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曹操は賈逵や司馬懿に暗殺されたのではないか?
史書では曹彰が大それた野心を抱いたかのような描き方ですがkawausoはもしかして曹操が心変わりしたのではないかと考えます。いざ、死を間際にした時、曹操が冷静な判断力を持っていたとは言い切れません。死因は脳腫瘍とも言われ、激しい片頭痛があった曹操が錯乱し曹丕を廃して長安の曹彰に自分の葬儀を司れと言った可能性はゼロではなさそうです。
そうでないなら、曹彰が賈逵に向かって曹操の璽綬の在処を問う事は無いでしょう。
「父は私に葬儀を執り行えと言ったのだ。魏王の璽はどこにある?」
それくらい質問しても不思議はありません。
しかし、賈逵や司馬懿は曹操が血迷った事を知っていました。同時に、もし曹彰に葬儀をさせれば曹丕派である自分達の破滅は確実です。こうして2人は意図的に曹操を殺害し、曹彰に会わせないようにしました。
殺人の証拠を見せない為に司馬懿が葬儀をした
しかし、問題は葬儀を曹丕に執り行わせると暗殺の証拠が出てしまう恐れがある事です。もし毒ではなく、曹操を絞殺したり身体に傷を負わせたなら、肉体がかなり腐乱しない限り、不自然な傷がある事が分かってしまうかも知れません。
そこで、賈逵は司馬懿が儒教の典礼に詳しい事を理由に、洛陽で司馬懿に曹操の葬儀を執り行わせ、曹操の遺体を柩に移して鄴までの護送の任務に当たったのです。一度柩に入れて陵に安置すれば、入り口は盗掘防止の為に塞がれ二度と柩が開けられる事はありません。
こうして、賈逵と司馬懿は曹操殺害の証拠を抹消する事に成功したのです。かくして曹操の後継者でもない司馬懿が曹操の葬儀を主宰する奇妙な出来事の辻褄はあってしまいました。
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