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大乱を防ぐにはこうするしかなかった
魏略によると、曹操が死んだ頃、魏では人民が労役で苦しみ同時に疫病も流行して、兵士も変事を察知して動揺していたそうです。
この状況で、曹操の死を発表すると混乱に拍車をかけると群臣は曹操の死の公表を控えようとしますが、賈逵は隠せば余計に動揺が広がると考え、曹操の死を公表しました。
このような記述がどこまで本当かは分かりませんが、曹丕は薄々、曹操の死に不穏なモノを感じながらも自分が受益者になった事には変わりないので、賈逵と司馬懿を追及しないで済ませたのかも知れません。そして、葬儀の後に曹丕がやった事は自分以外の曹操の子供達をそれぞれの国に帰し監国謁者という監視をつける事でした。
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秘密を共有し出世していく賈逵と司馬懿
そして曹丕は自分の帝位を揺るぎないものにした賈逵と司馬懿を厚遇し、2人は累進していき、司馬懿の孫の司馬炎は晋王朝を建国し、賈逵の子の賈充は晋朝で重臣となりました。
この背景に、曹操を暗殺した当事者という共通点があるとしたらどうでしょうか?
賈充は司馬昭の為に部下の成済を使い皇帝曹髦を刺殺させますが、この時に(父とて武帝を殺したのだ!我ら父子は大逆人よ)と腹をくくったとしたら、恐ろしくも面白い因縁になりますね。
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三国志ライターkawausoの独り言
曹操が臨終の間際に血迷い曹丕を廃して曹彰に葬儀を執り行うように命じ、身の破滅を恐れた賈逵と司馬懿が、曹操を殺害して曹彰の台頭を阻止した。にわかには信じられないミステリーですが、そう考えてしまう程に曹操の葬儀を司馬懿が主催したのは異様な感じがします。
本当は内乱を恐れて、さっさと葬儀を済ませて鄴に帰還しただけかも知れませんが、その後、本当に司馬懿が魏の後継政権の礎になったのを見ると、全くアリエナイとは言えないのではないでしょうか?
参考文献:晋書 高祖宣帝懿紀 正史三国志
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