三国志演義では生涯のライバルのような扱いになっている曹操と劉備。しかし、実際のふたりは余りにも実力差がありすぎて劉備も曹操が出張ってくるとサッサと逃げてしまうなど、全然ライバルっぽくありません。
それもそのはずで、正史三国志を著わした陳寿自体が、正史三国志先主伝で劉備は曹操と天下を争う気はなかったとあっさりと書いてしまっているのです。では、どうして劉備は三国の一角を占めてしまったのでしょうか?
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この記事の目次
劉備は曹操と天下を争う気はなかった?ザックリ
では、最初に劉備は曹操と天下を争う気はなかったという記事についてザックリ解説します。
一 | 陳寿の劉備評は劉備が曹操の災いを回避しようと努力した結果
蜀の建国が達成されたというような書かれ方をしている。 |
二 | 劉備は曹操との直接対決を避け続け、追われては逃げるを繰り返し、
遂には蜀を制圧し漢中で曹操を撃退するに到った |
三 | 曹操の死後、警戒心が緩んだ劉備は関羽の弔い合戦で呉と戦い
夷陵の敗戦で致命的なダメージを被る |
四 | 曹操の存在が劉備を英雄にしたが、曹操の死が劉備を誤らせて
しまったとも考えられる。 |
以上、ザックリですが記事の内容について解説しました。ここからは、もう少し詳しく内容を掘り下げていきましょう。
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陳寿曰く 劉備は曹操の支配から逃げようとして蜀を建国した
では、最初に蜀志先主伝の末に書かれた陳寿の劉備評を読んでみましょう。
先主(劉備)は心が広くて意志が強く、寛大で情が厚く、人物を見分けて志あるものを待遇し高祖劉邦の雰囲気を持ち英雄の器があった。
諸葛亮に国を挙げて劉禅と共に託し少しも疑わなかったのは古今の君臣関係でもベストに入るだろう。だが、権謀術数と才能では魏武(曹操)に及ばず、そのせいで領地もまた狭かった。
それでも何度挫折しても投げやりになる事無く、遂に曹操の部下に終わらなかったのは、つまりは曹操の力量では自分を使うには不十分と計算したからである。そのため曹操と利益を争っただけではなく曹操の害を避けようと努力した結果こうなったに外ならない。
陳寿は劉備の能力は曹操に劣ると認めつつ、それでも曹操には劉備を容れる器量がなく、殺される事を恐れた劉備は曹操の軍門に下る事なく災いを回避しようと逃げに逃げ、考えに考えた結果として益州に国を建国したと結んでいます。
曹操が煽ったから劉備は英雄になれた
陳寿の視点は、言われてみればそうですが、普段見落としそうになるものです。少なくとも曹操暗殺事件に関与した後の劉備は、曹操の脅威から逃れる為に袁紹の客将となり、袁紹が破れると荊州に劉表を頼り、荊州が曹操の軍門に下ると、今度は呉の孫権と組んで抵抗し我が身を守ろうとしました。
そして、たまさか赤壁で大勝利して曹操の勢力がやや弱まると荊州南郡に勢力を得て、ここから魏に攻め込むかと思いきや、秦嶺山脈で外界と隔てられる益州に行き、先住君主の劉璋を追放して主となりました。
また劉備は漢中を手中に収めようと定軍山で夏侯淵を斬るような金星を挙げますが、これは魏の領地に攻め込もうというより巴蜀の玄関口である漢中を奪わないと、いつ曹操に攻められるか分からないという危機意識が影響していました。
ついには陽平関で曹操と直接対決して降すほどの成長を遂げた劉備ですが、根底にあるのは曹操に殺されたくない!生き延びたいという精神だったのでしょう。
逆に言えば、曹操が劉備にガンガンプレッシャーをかけた事で劉備は煽られて発奮し、自分でも予想しなかった蜀の皇帝への階段を上ってしまったのです。
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曹操から逃れた劉備だが…
陽平関で曹操に勝利し、さらに曹操が死んだ事で恐怖から解放された劉備ですが、これで用心深い性格から解き放たれてしまい、関羽の弔い合戦を名目に呉と戦う事になります。劉備は曹操以外にあまり負けていないので、呉の陸遜如きに負ける事は無いとどこかで高を括っていたのでしょうか?
この夷陵の敗戦の痛恨事さえなければ、曹操の存在が丸々プラスに作用したはずですが、人生と言うのはなかなか難しいものです。曹操以外にも脅威はあると劉備が深く認識して謙虚にしていれば、また蜀の運命も変わったものになっていたでしょうけどね。
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三国志ライターkawausoの独り言
劉備を曹操の宿敵というのは、正史をベースに考えるとあまり当たってはいません。曹操が生きている間、劉備は極めて受け身であり最後の陽平関でも、打って出る事無く貝のように守りに徹して曹操軍を兵糧切れに追い込んで勝利しました。
しかし、曹操の魔手から最後まで逃げ切った人物としては劉備の右に出るものはいないでしょう。何しろ曹操暗殺計画に堂々と加担しておいて天寿を全うしたのですから、これは大したものだと言わねばなりません。
参考文献:正史三国志
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