後漢の末は黄巾の乱から乱れ始めますが、それでも古き良き儒者は存在しました。
今回紹介する張範もそうで兄弟も皆優秀、張範自身は曹操に招かれ邴原と共に太子の曹丕を補佐し曹操も行動を起こす前には、必ずこの2人に相談せよと曹丕に諭すほどでした。
でも、正史の張範の履歴を見ていると、なんだかスカスカな気がするのです。
この記事の目次
絵に描いたような名門の出身
張範は字を公儀と言い河内郡修武県の出身です。祖父の張歆は漢の司徒、父張廷は漢の太尉という名門で、弟の張承や張昭(呉の張昭とは別人)もそれぞれ優秀でした。
当時太傅を務めた袁隗は娘を趙範にめあわせて姻戚関係を結ぼうとしますが、張範は辞退して受けなかったようです。
張範は落ち着いた物静かな性格であり、老壮の教えを楽しみ栄利に無関心で政府から引き立てを受けても拒否して就任しませんでした。ここまで見ると虚礼ではなく、実際に世俗に塗れずとも食べていける大貴族であった様子が窺えます。
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袁術を言い負かした弟の張承
一方の弟の張承もやはり名声があり、方正として召し出され議郎に任命されて、やがて伊闕都尉に移りました。この頃、董卓が騒乱を起こしたので、張承は徒党を集めて天下の人々と協力して董卓を攻め滅ぼそうと画策します。
しかし、弟の張昭が長安からやってきて張承に向かって
「今は董卓を攻め滅ぼす時期ではなく董卓の人心が離れた後に帰順した者を選んで時期を待ってから行動するように」と進言したので、張承は官を辞して故郷へ帰り張範と共に揚州へと避難しました。
その頃、揚州は宇宙皇帝袁術が支配する土地になっていて、張範が流れて来た事を知った袁術は大喜びで充分に礼儀を尽くして迎えます。しかし張範は病と称して行かず袁術も無理強いはしませんでした。そこで張範は弟の張承を派遣して挨拶をさせます。
袁術は大喜びで質問し「昔、周の王室が衰微した時には、斉の桓公、晋の文公の覇業があった。秦がその政治に失敗した時、漢が後を受けて政権を握った。今、私は領地の広さや士卒民衆の多さを利用して斉の桓公と同じ幸運を求め、漢の高祖の事績を真似たいと思うがどうだろう?」
皇帝に即位したくて仕方がない様子の袁術ですが、ここで張承は答えました。
「問題は天下を治める正当性であって武力が強いかどうかは問題ではありません。そもそも厚く徳を施し、天下の要求に同調したならば農民の倅から出発しても天下統一の大事業を打ち立てるのは難しくはありません。もし、あなたが分不相応な真似をされ、時勢に逆らって行動、民衆がそっぽを向いてしまっては、誰が偉業を打ち立てる事ができますか?」
明確に自分の事を否定された袁術は不機嫌になりました。また、その当時、曹操は冀州の袁紹と事を構えようとしていて、袁術はさらに尋ねました。
「今、曹操めは疲弊した数千の兵卒で十万の大軍に敵対するつもりでいる。力量をわきまえない暴挙だと思うが君はどう思うかね?」
張承は、「漢の徳は衰えたとは申しましても、天命はいまだ革まってはいません。今、曹操殿は天子を抱えて天下に号令していますから百万の軍勢に敵対しても大丈夫です」
袁術は、この言葉で趙範や張承の心が漢の下にある事を知り、顔色を変えて不愉快だったそうです。こうして張承は袁術の下を去りました。
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どうにも嘘臭い張承の逸話
いかにも袁術が言いそうな事ですが、袁術が皇帝に即位したのは西暦197年の正月です。即位した後に、こんな質問をするわけもないので、張承との問答はそれ以前という事ですが、197年以前に曹操は袁紹と事を構えていないので、この問答自体が袁術を貶める架空の話のような気がします。
曹操に推挙され諫議大夫となる
曹操は冀州を平定すると使者を派遣して張範を迎えます。しかし、張範は病気と称して彭城に滞在し弟の張承を曹操の下に挨拶に行かせました。曹操は上奏し趙承を諫議大夫とします。
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突如出現する山賊エピソード
さて、いつ頃かは不明ですが、張範の子の張陵と張承の子の張戩が山東の賊軍に捕らえられた事がありました。張範はすぐさま賊軍の所に2人の子をもらい受けにいったので賊は張陵を張範に返しました。
張範は感謝しますが、「人情としては我が子がかわいいが、私は張戩の幼さを不憫に思うので我が子と張戩を取り替えてくれないか?」と持ち掛けた所、賊は張範の仁の心に感動し張陵と張戩の2人を返したとされます。
この話も、わりとどうでもいいと言うか、内容がないのを埋める目的で書いたような気がするんですが、どう思いますか?
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邴原と共に曹操の留守番役を務める
曹操が劉琮を平定して荊州から帰還する時、張範は陣中にて目通りし議郎、参丞相軍事に任命され、とても尊敬され重んじられました。以後曹操は長期遠征に出る前には、いつも張範と邴原を鄴に留めておき、曹丕と共に留守を預からせたそうです。
曹操は、曹丕に「行動は必ずこの2人に相談せよ」と言いつけ、曹丕は子や孫の礼を取って2人を扱いました。張範は西暦212年に死去しますが、銭に淡泊でお金は恵まれない生活困窮者に与えたので、家に余分な金もなく、都の内外のみなしごや寡婦、寡夫は、皆張範を頼ったそうです。
また、贈物をはねつける事もない代わりに使う事もなく、そのまま封をしておいておき、土地を離れる時には、そのまま返却するという事をしていました。
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三国志ライターkawausoの独り言
張範は本当に隠者だったのかも知れませんが、あまりにも内容がスカスカです。むしろ弟の張承の方が内容があり、曹操が魏王となった辺りまで生存し張魯征伐まで従軍して長安で死没していますが、どうして張承の列伝が張範に付属しているのか不思議な位です。
そして、正直、張範と張承、2人足しても列伝に挙げる程の事だろうか?という微妙な活躍ぶりですが、そこは漢の名門の威光が重用だったのでしょうか?
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