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とんでもない暴政で都を恐怖のどん底に!
董卓の軍は悪逆非道の塊でした。彼らは殺人、強姦、略奪など悪行の限りをつくし、都を恐怖に陥れました。また、董卓も少帝を毒殺し、献帝を擁立した上で先帝の墓をあばき宝物を略奪するなどやりたい放題でした。
その為、袁紹を盟主とする「反董卓連合軍」が結成され、各地で反乱が続出します。これに対し、董卓はなんと防衛の為無理やり洛陽から長安への遷都を実行します。この際に洛陽の金持ちを無実の罪で殺し、その財産を奪い、街に火を放ち洛陽をあっという間に焼け野原にしてしまいました。
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赤ん坊まで高官に任じてしまう暴君・董卓!
長安に到着した董卓は自ら「太師」(皇帝の最高顧問)の位に就き、次々と一族を朝廷の高官に任じます。そして妾に産ませたまだ歩くこともできない赤ん坊も高官に任じたといいます。また、巨大な城砦を築き、庶民からは略奪する中、30年分もの食糧を蓄えていました。
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すっかり肥満になってしまった董卓、死す
「王允」は密かに董卓暗殺を計画し、董卓の側近である「呂布」を抱き込むことに成功します。
そして皇帝の快気祝いで訪れた董卓を呂布に殺させます。
董卓の死体は市場にさらされ、見張り役が巨大な蝋燭を作り死体に突き刺すと、董卓の肥満した死体は何日も燃え続けていたといいます。董卓の一族は先述の赤ん坊も含めことごとく殺されてしまい、90歳になる董卓の母も同様でした。
正史「三国志」の著者「陳寿」は董卓について「暴虐非道、これほどの悪い人間はいないだろう」と辛辣な評価をしています。
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三国志ライターみうらの独り言
董卓の若いころの逸話はとてもカッコいい男を連想させますが、権力を握ってからはろくな逸話がありませんね。やはり権力を手に入れると人は変わってしまうのでしょうか?
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