春秋戦国時代は、戦国七雄と呼ばれる強国が領土の拡大を懸けて命懸けの戦いを繰り広げました。そこで、今回は戦国七雄、一番強かったのはどこの国の兵士というテーマで、簡単かつ分かりやすく書いてみたいと思います。
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この記事の目次
戦国七雄比較の元ネタ
戦国七雄の兵士の強さ比較の元ネタは縦横家として知られる弁舌の士、蘇秦と張儀が、それぞれ戦国七雄について説いた内容を参考にします。また、分かりにくい言い回しは、現代風にアレンジしているのであしからずご了承下さい。
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兵数よりも重装備で勝負 韓
韓の軍事力は蘇秦によるとフル装備した兵が20万人とされています。
秦や楚の兵力は100万人らしいので、その1/5の兵力しかありません。ただ、韓は兵力の少なさを補う為に、弓や機械式の弓である弩を発展させました。
その為に、天下の名だたる弓や弩は全て韓で製造され、360m離れた敵兵を狙い命中させられ、至近距離なら矢が胴体を貫通するというから凄まじいです。アウトレンジから矢を打ち込めば、こちらは損害を出さずに相手を倒せますからね。
そして、韓の兵士の装備する剣や戟はすべて冥山という場所で製造された鉄剣で敵軍の鎧を簡単に斬り裂く事が出来ます。このように韓は兵力の少なさを飛び道具や鉄の剣や戟、革鎧のような装備品で補っていて、大軍で攻めていかない限りは、なかなか手強い相手のようです。
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騎馬と戦車が多い趙
趙は楚ほどではないものの面積が広く、領内に騎馬民族がいる事情から騎兵も多く保有しています。兵力は数十万で、戦車が千両、軍馬が1万頭で兵糧は数年を支えるだけあるとされます。
この1万頭の軍馬は秦と同じ頭数で趙が武霊王の時代から胡服騎射の国である事を裏付けていますが、意外にも戦車が千両あり、重武装兵器に恵まれているようです。
全体として軽量級な燕
燕は、兵力は数十万、戦車は六百乗、軍馬は六千匹、糧食は数年間を支えるだけの量があるとされています。戦車や軍馬の数は秦、楚、趙の6割で韓や魏よりは少し強いというレベルで、軽量級の国という事になるでしょう。
それでも燕が生き残ったのは、秦との間に緩衝装置の趙があったからで、事実、趙が滅びるとわずか数年で燕も秦の攻撃を受けて滅んでいます。
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常備軍を持つ魏
魏は、蘇秦によると武装兵20万、蒼頭巾の足軽20万、精鋭兵20万、雑役夫10万、戦車600乗、軍馬5000頭と単純に兵力を合計すると50万人と多く、戦車や軍馬の数では大国の秦や趙や楚に劣るものの兵力面では見るべきものがあります。
しかし、蘇秦のライバルであった張儀の魏の戦力評価はかなり落ちて兵士は30万人で、砦を守るのは10万人以上と書いています。
魏は領土が狭く、戦争の度に徴兵しては合戦に間に合わないので、常備軍を組織して重武装の歩兵を好待遇で職業軍人として雇用していたようです。だとすると、50万人は財政負担が大きすぎるので張儀の指摘通り、30万人で内10万人は砦に張り付けて他国の侵略に備えていたというのが妥当かも知れません。
魏の兵士の選抜試験は厳しく兵士個人では七国でもっとも精強な兵を持っていたようです。
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徴兵制の国 斉
斉は兵力数十万で、軍隊は三軍、あるいは五家の兵のように決められた組織があったようで、進軍は矢のような速度、戦えば雷のような強さと形容されています。
また、兵士を解散させるのも迅速とある事から見て、斉では常備軍が少数で戦争があると民間から徴兵して間に合わせていたと見られます。斉の王都である臨淄は七万戸の家があり、この臨淄だけで21万の兵力を集められると蘇秦は書いています。
ただ、斉の領地は非常に広大で徴兵しても全域から兵力が集まるには、かなり時間が必要だったようです。また、臨淄は繁栄しインフラ整備も進んでいたとの事で、庶民の暮らし向きも他国に比較するとよく、兵士が必死に戦うモチベは育たなかったようです。
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